土鈴関連の辞書です。

今後とも充実を図ります。


ながしこみ 【流し込み】

土鈴生産の一手法。大量生産に向いている。

泥奨(粘度に水ガラスを混ぜて液状にしたもの)を石膏等で作った雌型に流し入れ、干乾しした後に残った泥奨を流し出す。

コンベヤ、乾燥機等を設備した工場で生産するのに適している。

一般的に肉薄で軽い鈴となり、他の手法に比べて内側は滑らか。

なかたよしき 【中田好紀】

大阪出身、長崎市西出津町(にししつまち)在住の女性作家。

1990年、30歳のとき長崎にIターン移住、当時の愛猫「めい」の名をとり「めい窯」開窯。

2013年、西出津町に移転。夕日が有名な角力灘(すもうなだ)を望む高台にある自宅兼工房の近くに、世界文化遺産の出津集落、出津教会堂などがあります。 猫とヤギと暮らし、野菜は自給自足の半農半陶。猫の置物中心ですが、たまに染付や掻き落とし(かきおとし※)の器も作られています。

土鈴も猫モノ中心。奈良町で6月に開催される「にゃらまち猫祭り」にも出品。

※素地(きじ)に、化粧土、鉄絵具、釉薬などを塗ったあと掻き落し文様を描いたもの。

なごやつちにんぎょう 【名古屋土人形】

 一説には、明治4年(1871)の廃藩により武家の身分を失った旧士族が、 熱田神宮の祭祀用土器の窯場であった御器所(ごきそ)村(現・名古屋市昭和区)で 京都伏見人形の製法にならって作り出したのが始まりとされています。中でも野田家は明治15,6年頃から土人形作りに携わり、野田末吉さんは父・重成さんの跡をついで人形製作者になりました。

 名古屋土人形は明治中頃最も盛んに作られ、野田家以外に十数軒の製作者がいたそうですが、 多くの作品を戦争の空爆で失い、戦後は野田家だけになってしまったようです。

 最後の伝承者野田末吉さんが平成元年(1989年)9月12日に86歳で亡くなったことにより廃絶となりました。 末吉さんの作品は意匠や色彩が素晴らしく、手のひらに収まるほどの小ささながらも表情豊かで今でも愛好家の間で大変人気があります。

なにわおもちゃかい 【浪華面茶會】

自作玩具や郷土玩具の見せ合い談義会。

昭和8年に大阪市天王寺区生玉町の桜の寺として有名な隆専寺に「面茶塚」建立した。

メンバーは林家染丸・桂小春団治・川崎人魚洞(巨泉)・粕井豊誠(信一)・芳本倉多楼(倉太郎)・橘家蔵之助・中西竹山・ 梅谷紫翠・野々田予里・三遊亭円馬(橋本)・三遊亭志ん蔵・木村且水(だるまや)・三宅吉之助。

 

にしのみやがらくたしゅう 【西宮雅楽多宗】

戦前の西宮で創立された蒐集家ネットワーク

創立は昭和5年5月5日。終焉は明確ではないが昭和二十五(一九五〇)年の「西宮雅楽多宗開創二十周年記念祝賀会」を契機に、 宗員の高齢化も進み、例会活動が下火になり、昭和三十二(一九五七)年十一月十七日に「鈴まつり」を浄願寺で行なったのを最後に 西宮雅楽多宗の活動は確認できていません。

宗員(会員のこと)の蒐集ジャンルは多岐に渡り、中でも土鈴を主に集めた宮本圓心(本名:寺口督次)氏のコレクションは 現在、最明寺郷土館(神戸市垂水区)に収蔵されている。

西宮雅楽多宗に関しては山内英正氏の「西宮雅楽多宗」の人々(一)戦前編一趣味人ネットワークの成立・展開一、 「西宮雅楽多宗」の人々(二)戦後編一趣味と世相批判、そして後継者一がネット上に公開されています。

にほんさんだいどれい 【日本三大土鈴】

日本三景、三名城、三大祭り、三大がっかり名所というように日本人は昔から「日本三大○○」というのが好きある。

日本三景のように定番のものもあれば、3番目にご当地のものを入れて地域性が見えるものもある。

土鈴においては「山梨県 御岳金桜神社 虫きり鈴」、 「 富山県 蛇の目鈴」、「 福岡県 英彦山のガラガラ」が挙げられていますがいかがでしょうか。

ぬて 【鐸】

「 ぬりて(鐸) 」に同じ。

「浅茅原小谷を過ぎて百伝ふ-響(ゆら)くも置目来らしも/古事記 下」

ぬりて 【鐸】

「 たく(鐸) 」に同じ。

上代,合図のために用いた。 「鐸を懸けて,謁者に労(いたわ)ること無かれ/日本書紀 顕宗訓」

「鐸」に似た言葉  鈴 ベル 鐘 撞き鐘


 

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