作家の個性 偲ばれる鈴への心意気

 英彦山の「金の鈴」の土鈴について、今一つ記憶にとどめておきたいことがある。 英彦山神社から授与されたこの「金の鈴」が、博多人形師の井上銀月・博秀父子によって作られていたことは、すでに述べたところだが、この土鈴は全体が金色に彩色され、 活字体の印形で押された「英彦山神社」の陰刻文字と、手彫りの「金の鈴」の陰刻文字とが見られる。 この「金の鈴」の文字を、銀月・博秀父子それぞれの作品について比較してみると、その彫り方に大きな相違のあることが見出される。 つまり、故銀月氏の陰刻文字が舟底型のまるみを帯びているのに対して、博秀氏のは薬研彫でV字型に彫られているのである。これはその製作に用いた箆<へら>が、 前者が黄楊<つげ>箆であったのに対して、後者は篠竹<しのだけ>の切り箆であったところからきた違いでもあったという。

 当の博秀氏からうかがった話では、長年使用して油のよく染み込んだ黄楊櫛の背のみねの部分から作った箆が、黄楊箆としては最高のものであると言い、 今日、黄楊材から黄楊箆を作る場合でも、その木材を二つ割にして、二三年乾燥させ、また、それをそれぞれ二等分して全体を四つ割にして、同じく二三年乾燥させてから八つ割りにするといった具合に、 何度も同様の手順を繰り返してその材料を細分し、十年以上の年月をかけて、一本の黄楊箆を仕上げるという。

 一方、切り箆に用いる篠竹の方も、民家の建材として天井に用いられ、一世紀以上も囲炉裏の煙で燻<いぶ>されたものが最高だと聞いた。

 こんな話に耳を傾ける時、仕事の道具に寄せる製作者の情熱と心意気の程とが偲ばれて頭の下がる思いがする。

 さらに、同じ父子の作品でも陰刻文字の相違だけではなく、また、「金の鈴」の土鈴それ自体の形の上にも変化の見られる点は、誠に興味深い。 この土鈴は、鈴のほぼ中ほどに太い鉢巻きがあるが、この鉢巻きから下の所が、故銀月氏のものは下膨(しもぶくれ)であるのに対して、博秀氏のは、尻つぼまりのまろやかな形を構成している。 父と同じ型に安住しないで、ユニークなイメージを追及しようとしたところに、創作土鈴一筋に打ち込んできた博秀氏の姿がうかがわれよう。

 もう一つ別に、英彦山ガラガラの起こりについて博秀氏から次のような話を聞いた。 昔、山で働く樵<きこり>が粘土の土を捻って焚火で焼いて作った手製の土鈴を泣いている子供に玩具として与えたのがその始まりであったというのである。 これは先に述べた起源とは違っているものの、信仰の呪物と玩具とのかかわりを物語る伝えである点が面白い。

 ともかく、英彦山ガラガラには、神社から授与される鈴守りの性格に、玩具としての意識が揺曳?しているが、社寺の授与とはかかわりなく、 早く江戸時代から子供の玩具としてユニークな発展を遂げてきたのが富山の蛇の目鈴である。蛇の目の模様に配色の美しさを加え、 やはり、日本三大土鈴の一つに数えられているだけあって素晴らしい。 蛇の目は加藤清正の紋所でも知られるように、本来一眼であるはずなのに、鈴全体の形を蛇の頭に見立てて、合理的に両目を描いた図柄も生まれている。 子供にとってはかえってこの方が人気があったのかもしれない。


初出 昭和53年(1978年)3月15日(水曜日)

本日の一鈴 蛇の目鈴(富山市)

蛇の目鈴(富山市)

 土雛窯 古川圭子氏 作

 

 


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