(9) 虫切り
昔から、幼児の病気として最も広く人々の悩みの種であったのが、疳(かん)の虫であった。 しかも、この神経質な小児病は夜泣きを伴い、周囲の人々への気兼ねも加わって、親たちにいたたまらない切ない思いをさせるために、この病気に対して、これを予防し、 退散させる薬餌(やくじ:くすりと食物。また単に、くすり)と呪術が、数多く見られる。 まず、薬餌としては、古くから有名な孫太郎虫(ヘビトンボの幼虫を乾燥させた漢方薬)を始め、赤蛙・カタツムリ・ナメクジ・ミミズ・ヤツメウナギ・かまきりの巣とか、 雪ノ下・オモトの根・菖蒲の根など各種の動植物が用いられ、別に疳抜きの灸とか鍼(はり)なども行われている。
これに対し、その予防のための呪法としては、虫切り・虫封じ・虫加持といったことが、神官や僧侶、その他の呪術者によって広く行われているとともに、 社寺から護符を受けてくる民俗も多い。 長野県の佐久平では、竹の筒に、虫を封じるといって、ふたをして柱などに釘付けにしておく慣習があるが、子供の寝室の柱に社寺から授与された木箱を釘づけにしてかけておき、 疳の虫の起きた時に、その釘を打ちつけるとか、その箱をたたくととそれがおさまるという。 似たような民俗が各地にみられるのは、一種の感染呪術であった。
一方、こうした屋内の一定の場所に呪物をとどめておく方法と異なり、護符を常に幼児の体に付けさせることによって、これを守護しようとした方法も、 また広く見られる。
この虫封じの習俗が、鈴と結びついて生まれた代表的な土鈴が、山梨県の有名な虫切りの鈴である。 この土鈴は、御岳昇仙峡の金桜神社から授与される鈴守りで、金色に塗った素焼きの小鈴五個を一束としたもので、現在のものは紅白の細い紐で結ばれている。 昔は、虫封じの祈祷をして貰って受けてきたこの鈴守りを、子供の帯に吊るしてやり、もし、この紐が切れて鈴が飛び散ったなら、 それが疳の虫の切れたことの証であるとする俗信が伝えられており、虫切りという鈴の名称は、この虫封じの民俗に基づくものであることが知られよう。
なお、子供の着物の紐に鈴を付けておくと天狗に捕らえられない(富山県)とか、子供の腰に鈴を下げさせるとジフテリアにかからない(岐阜県)などといった、 育児の呪法があちらこちらに伝えられているものも、これらの鈴が土鈴とは限らないが、その考え方の根底は、虫切りの土鈴と全く同じであった。
蔵王権現ともいわれる金桜神社は、かつては鬱蒼とした森に囲まれた幽邃(ゆうすい)な神域のたたずまいを備えていたが、 昭和30年の火災ですっかり変わってしまった。 昇仙峡自体が、その奇勝を下から仰ぎ見る元来のコースだけでなく、覚円峰の景観を左手に眺めながら走る有料道路が作られ、仙蛾(せんが)滝の上を経て、 金桜神社の駐車場まで、車で参拝できる便利な今日、遥々とわが子の虫封じのために赴いた昔の人々の信仰心のほどが偲ばれて尊い。 こうして、神社も道路も人の心も大きく変わってしまったが社務所で授与する虫切りの鈴だけは、さすがに3大土鈴の中に数えられるだけに、 昔のままのすずやかな音色を今日もなお絶えることなく伝えている。 昨年(1977年)12月4日訪れた時、社務所で授与していた土鈴は虫切りのほかに、素焼きの大鈴の上に金色と朱色との小鈴をそれぞれ1個づつつけた「叶」鈴と、干支土鈴とであった。
初出 昭和53年(1978年)3月13日(月曜日)
虫切鈴の由来 金櫻神社の案内看板より
武田信玄公の弟信繁は幼少の時癇の虫強く母の信虎夫人は深くこれを憂い、この鈴に願をこめて武田氏代々崇敬の厚い金桜神社に祈願しました。 即ちたちどころに癇の虫おさまりその後信繁はりっぱに成長して武田氏二十四将の雄として活躍し川中島の合戦に兄信玄公の身代わりとして美事な討死を遂げました 以来四百余年金桜神社において虫切厄除の鈴として授興しております
なおこの虫切鈴は日本三土鈴の一つとして全国にその名を知られています
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