念聲寺の安産守土鈴
今回ご紹介するのは奈良の「きたまち」にある念聲寺の安産守土鈴です。
念聲寺は観光寺院ではないので、気軽に拝観はできないので安産守土鈴を持っていても素性がよく判りませんでした。
今回、「ならまち・きたまち路地ぶらり」というキャンペーン行事が行われて、その公開寺院の中に念聲寺が含まれていましたので行ってきました。
安産守土鈴です。
戦前の土鈴で「安産守」の文字が右から左に書かれています。
先ずはマップで念聲寺の所在地を確認していただきます。
場所は奈良女子大学の東側、前の道を東に進むと旧奈良街道の国道369号線にぶつかり、正面には祇園社(八坂神社)があります。 即ちお寺の前の道は八坂神社が創建されたとき(鎌倉時代の1338年)に参道として作られたものです。
また、今は暗渠になっている中御門川と吉城川の三角州にあります。三角州の窪地(凹地)にあったので現在の町名「川久保町」の由来になったようです。
お寺は「奈良の北焼け」と呼ばれる宝永元年(1704)4月11日の大火で焼けてしまって、草創期の情報は不明とのことですが、 後世の資料(過去帳・墓石など)より、元禄年間(1688-1703)に武田信玄の子孫とされる英暉上人(第三世)による開基、寺号《念聲寺》は一乗院の宮より給わったといわれています。
奈良時代から続くお寺も多いこの地においては比較的新しいお寺さんですね。
でも三角州の凹地はお寺を建てるにはあまり良い土地ではなかったのではないでしょうか?きっと権力やお金とはあまりなじみのないお坊さんだったのかなと思います。
現在の本尊は阿弥陀如来、両脇は観音菩薩・勢至菩薩です。安産とはあまり関係ないように見えます。
ところが阿弥陀如来が本尊となる前の信仰の対象(お寺のルーツ)はお地蔵さんだったようです。
山門の西側(墓地の入り口左側)に地蔵堂があります。光背の形から「船後光地蔵尊」と呼ばれているお地蔵さんです。 お寺よりずっと古く、鎌倉時代末期の作風だそうです。
この地蔵石仏は別石の六角形基台の上、大きな円形蓮台に坐す地蔵坐像石仏です。
大きさは総高約160cm、光背高110cm、結跏趺坐する座高は約70cmで、光背蓮華座と共に一石で刻み出されています。
堂内に祀られて居たものか風化摩耗も少なく、保存状態も良好です。
そして地元では安産延命の地蔵として信仰を集めています。やっと土鈴の「安産」につながりました。
探してみるとこんな新聞記事が見つかりました。昭和11年の物です。
余談ですが、念聲寺のある「きたまち」エリアはたくさんのお地蔵さんがあることでも知られています。 特に、この船後光地蔵尊を含む6体のお地蔵さんは「きたまち六地蔵」と呼ばれています。
他の5体はといえば、東大寺念仏堂・地蔵菩薩像、五劫院・みかえり地蔵尊、夕日地蔵尊、佐保川地蔵尊、普光院・地蔵菩薩立像だそうです。
この地域は毎年7月23日の地蔵盆には大変賑わうそうです。一度お地蔵様をめぐってみたいと思います。
土鈴のページですからもう一つ安産祈願の土鈴をご紹介します。
奈良の法華寺に伝わる郷土玩具の守り犬を土鈴にしたものです。郷土玩具の守り犬は小さなものですがこの土鈴の大きさは横約8㎝×高さ約5.5㎝です。(寸法は凡そ2倍です。)
天平の昔仏門に深く帰依された光明皇后は法華滅罪寺を尼の国分寺と定めて千日供養の法要を行いました。 供養の灰土を固めて小さな犬を作り人々に授けたのが守り犬の始まりと言われています。
胴には五星や松が描かれ疱瘡除け、安産のお守りとされています。この土鈴も手びねりで作られ胴の模様も忠実に描かれています。
ヘッダー、フッターには安産に因んで犬の土鈴を選びました。
海老天たまこの戌年干支鈴です。
また、背景は念聲寺の鬼瓦です。