奈良県 高市郡明日香村大字平田字ムメヤマ(梅山)
近鉄飛鳥駅から徒歩7分、第29代の欽明天皇の御陵です。猿石で有名な吉備姫王墓を過ぎて突き当たりにあります。吉備姫王墓側から見ると右側(東側)が後円部、左側(西側)が前方部になります。 今は大きな前方後円墳ですが、この形は幕末の修陵事業によって捏造されたものでそれまでは双円墳だったと言われています。 そこで、多くの考古学者は真の欽明天皇陵を見瀬丸山古墳であるとしています。
欽明天皇は在位539〜571年。蘇我稲目の娘二人、堅塩媛(きたしひめ)と小姉君(おあねのきみ)を妃とし、堅塩媛との間に炊屋姫(かしきやひめ)=後の推古天皇、聖徳太子の父橘豊日皇子=後の用明天皇、小姉君との間に聖徳太子の母穴穂部間人皇女、穴穂部皇子、泊瀬部皇子=後の崇峻天皇などの子をなしています。
治世中、百済の聖明王によって仏教が伝来し、約半世紀続く崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部・中臣氏との権力闘争の発端となりました。仏教伝来の年は歴史の教科書で習ったのは538年(欽明戊午年)日本書紀によれば552年(欽明13年)ということです。
墳形 | 全長 | 後円部径 | 後円部高 | 前方部幅 | 前方部高 | 年代 |
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前方後円墳 | 140 | 73 | 107 | 6世紀後半 |
陵印 現代 |
陵印 昭和16年 |
宮内庁が立てた制札 |
前方部正面、珍しく見下ろす位置。 |
このような大型古墳は普通、遠望がきく丘や尾根の上に築かれているのに少し様子が違っています。この古墳は東西に長い丘陵の南の斜面をコの字形に切り取って作られています。 左の写真は西側から見下ろすように撮ったものですが、東北西の3方はカットした丘陵で南側だけが開けた平地になり川が流れています。 この地形は風水思想の影響を受けて作られたものと考えられており、これ以降登場する終末期古墳との接点になるものとされています。 |
戦前の写真 |
飛鳥の里に続く道 欽明天皇陵の南側に沿って東に向います。 |
路傍の地蔵、良い雰囲気でしょう。 |
皇后 石姫皇女 磯長原陵 陵印 大阪府南河内郡太子町大字太子字奥広 昭和18年6月 |