佐紀盾列(さきたたなみ 又は さきたてなみ)古墳群の一つで御陵山(みささぎやま)、佐紀陵山古墳とも呼ばれます。
垂仁(すいにん)天皇の皇后・日葉酢媛命(ひばすひめみこと) の御陵・狭木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ)です。
日葉酢媛は古事記の記載では氷羽州比売・比婆須比売であす。その御陵の所在は長く不明でしたが、自分の孫にあたる第十三代成務天皇陵の隣に1875年(明治8)治定されました。
かつては神功(じんぐう)皇后陵にあてられたこともありました。
野見宿禰(のみのすくね)の献策で人身御供(ひとみごくう)にかえて埴輪を初めて立てたという『日本書紀』の説話でも有名です。
橿原市鳥見町にお墓(枡山古墳)のある倭彦命(崇神天皇の子供)が亡くなった時、従者を殉死させたので生き埋めになった人たちの泣き叫ぶ声が何日も続いた。
それが哀れなので、次に日葉酢媛命が亡くなった時に野見宿禰の建言によって人を殉死させる代わりに埴輪を立てた。その為に出雲の国から土師部を呼んで埴輪を作らせたということです。
しかし、日葉酢媛命の時期に比べて円筒埴輪の起源は古く、人物埴輪は新しいものです。
墳形 | 全長 | 後円部径 | 後円部高 | 前方部幅 | 前方部高 | くびれ部幅 | くびれ部高 | 年代 |
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前方後円墳 | 207 | 131 | 18 | 87 | 12.3 | 古墳時代・前期 4世紀後半~5世紀前半 |
宮内庁の作った制札 |
遥拝所 |
陵印 昭和17年5月
瓢箪山古墳の墳丘から見た全景です。見えているのは日葉酢媛命陵の東面、すなわち右側が後円部になります。
位置関係はこの地図のようになっています。