The tomb of Emperor Heizei, the 51st Emperor of Japan.
第51代 平城(へいぜい)天皇 = 安殿親王(あてのみこ)の揚梅陵(やまもものみささぎ)。
生没年 774(宝亀5)~824(弘仁15)。第50代桓武天皇の第一皇子。
南側に平城宮跡が広がります。
9世紀に崩御した平城天皇の陵に治定されていますが、この古墳は平城宮造営前の5世紀頃(古墳時代中期)の築造と考えられ平城天皇の陵に治定するのは無理があります。
また、明治以前は現・磐之姫命陵 ヒシアゲ古墳が平城天皇陵とされていましたが、こちらも年代的には合いません。
この古墳はかって最大の円墳と考えられていましたが、平城宮造営工事のため後円部の一部を残して南側の前方部と周壕が破壊されていたことが近年確認されました。
全体が残っていれば、墳丘長250mと推定され、全国で第14位の大きさということになってます。
1962ー3年の調査で、前方部と両側の造りだし・盾形にめぐる周濠が確認され、前方部端の周濠は黒石を敷いて地面に標示されているらしい(私は確認していませんので)。
それでは何故、平城宮の造営時に一部とはいえ古墳を潰したのか?祖先の墓ではなかったのか?という疑問が生じます。
続日本紀の記録には平城京の造営という国家的大工事によって、先人の墓を破壊したと出ています。
ここは平城京の中心、大極殿(第二次)の真北に位置し、四神の玄武に当たる。どうしてもこの位置に玄武を現す山が欲しかったのだと私は思う。北京の紫禁城(故宮)の北側に人工の山が築かれているのに通じるのではないかと想像する。
墳形 | 全長 | 後円部径 | 後円部高 | 前方部幅 | 前方部高 | くびれ部幅 | くびれ部高 | 年代 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
前方後円墳 | 250 | 140 | 13 | 160 | 古墳時代・中期 5世紀 |
宮内庁の作った看板(制札) |
遥拝所 |
御陵から平城京の方を望む。 正面が第二次大極殿跡。少し右手に朱雀門が見える。 |
地図 第二次大極殿の真北に御陵があるのがわかる。 |
遠景 |
第二次大極殿跡から見たところ。 |
水上池越しに東側から
中央の緑色が平城天皇陵。
陵印
御陵の前から南西方向、
再建された第一次大極殿を眺める。
平城京は二つあります、というのは、聖武天皇の時代に転々と都が移され、再び戻ってくるということがなされました(平城京→恭仁京→難波京→紫香楽宮→平城京)。 そのため、前半と後半で、大極殿の位置が大きく変わり、平城宮には時期の異なる大極殿が2つありました。