昭和53年(1978年)3月~4月に30回にわたり新聞連載されたものです。

著者・鈴木正彦氏の快諾を得て、ここに公開します。

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駅鈴 公の官吏のシンボル

 万葉集には、今まで述べた牛の鈴・鷹の鈴のほかに、今一つ鈴の歌として駅鈴が歌われている。

 鈴が音の 早馬(はゆま)駅家(うまや)の 堤井の 水を給へな 妹が直手(たたて)よ(14-3439)

 この歌の「鈴が音」は早馬にかかる枕詞として使われているが、そこには駅鈴を鳴らしながら走る早馬の活き活きとした実景が写されていることはいうまでもない。

 駅鈴については、柏崎永以の「古今沿革考」に、「大内裏の古、天子より諸国へ使いを立てらるるに、少納言の承りとして、王鈴の宮より鈴を渡さるる。 使の者是を持ちて、諸々を駅馬(はいま)々々といふて鈴振り行く也、人も道をよけ、又駅舎にてはるかに聞き付けて、馬及び人歩の支度をととのへ待つなり。 (中略)この鈴は八角にて、行程の日数を付けたる物也」とあり、藤井高尚の「松の落葉」に「鈴は天子のみしるしにたまふものにぞありける。おほやけごとにてものへゆくに、この鈴を鳴らしゆけば、 うまやうまやより馬をも人をも出すこととおもはる。さるからに、飛駅の鈴とも駅路の鈴ともいへるにぞ、(中略)かくやんごとなきものゆえに、公式令に、其駅鈴伝行還到。 二日之内送的。とありて、おほやけごとをはりかへれば、すみやかにかへしたてまつることになん」とあることによっても、おおよその理解がえられよう。 つまり、駅使と呼ばれた公の官吏が、その資格を示す駅鈴を政府から授けられて、これを鳴り響かせながら公用の馬を走らせ、 この駅鈴を示すことによって駅家から人馬の補給を受けることが出来たわけで、駅鈴はまさに公の旅行のパスポートであった。 同じ万葉集の歌に、

 左夫流児(さぶるこ)が 齊(いつ)しき殿(との)に 鈴懸け ぬ 駅馬(はゆま)下れり 里もとどろに 」 巻18の4110 大伴家持

 とある「鈴懸け ぬ 駅馬」は公用の使が駅鈴をかけた駅馬を使ったのに対して、これは私用だから、駅鈴をつけない駅馬を借りてやって来たというのである。 したがって、公私の別は、駅鈴の有無によってはっきりと区別されていたことがわかる。

 駅鈴の文献としては、「日本書紀」の孝徳天皇大化2年正月、大化の改新の新制度が発布された条に、「駅馬、伝馬を置き、鈴契(すずしるし)を造り、山河を定めよ。 (中略)凡そ駅馬・伝馬給うことは、皆鈴・伝符の剋(きざみ)の故に依れ、凡そ諸国及び関には、鈴契給ふ」とあるのが最も古い。 しかも、「公式令」に見られるように、後々には駅鈴に関する細かい制度が規定され、あるいは、江戸後期の随筆「聞秘録」に、「駅鈴の鈴は六角八角也、延喜式にあり、 八角は陸奥の国、或いは国の果てへ行く時のよし」と記されているような、さまざまの変化が見られる。 なお、「平家物語」(巻五)の「富士川」の段に、平維盛・忠度が東国への出陣に際して、 (讃岐守・平正盛が前対馬守源・義親追討のために出雲国へ下向した例にならって)駅鈴を賜るところがあり、 この駅鈴を皮の袋に入れて雑色の首に掛けさせて出かけたと見えているから、こうなると、四囲にこだました万葉時代のさわやかな駅鈴の音色は、すっかり失われてしまったようだ。


初出 昭和53年(1978年)3月6日(月曜日)

本日の一鈴 駅鈴(井上博秀 作)

駅鈴(井上博秀 作)

 博多土鈴・井上博秀さんの駅鈴です。

 作者の井上博秀さんは、博多人形師の父、銀之助について人形作りを習いましたが、戦後、素焼の土鈴の魅力に引かれて、昭和35年頃から土鈴専門の製作者となりました。 博秀さんは地元の博多帯土鈴、二輪加面土鈴、きじ車土鈴、など福岡にゆかりのある土鈴のほか、 全国各地を取材して印象に残ったもの、感動したもの、例えば、長野の蘇民将来、新橋演舞場の石碑、万治の石仏、石川啄木の詩碑、津和野の鷺舞……を題材に創作土鈴を作られました。

駅鈴に関してはこちらのページもご参照ください。


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