(5) 隠岐の国の鈴
我が国の鈴の文献的資料としては、駅鈴に関するものが最も多いが、中でも有名なのが隠岐の国造家(こくぞうけ)に伝わる駅鈴であった。この国造と親しく交わり、 じかにその駅鈴を見せてもらったという今の三重県久居市出身の江戸の儒医者橘南谿(タチバナ・ナンケイ)は、その著「北窓瑣談(ホクソウサダン)」の中で、「平に四角で隠々としては、 角の峻(かど)あり、下の方に音穴長く普通のごとし。平面に駅鈴の二字有り。銅の古色愛すべし。 実に数千年の物なり。その音清亮、殊更に音高くしてよく遠く聞ゆ」と、挿絵入りで説明している。
その音色がいかに素晴らしかったかは、南谿の友人で、同じくこの造家と京都で親交を結んだ百井塘雨(ももい とうう)が、『笈埃随筆(きゅうあいずいひつ)』の中で、 「その音声の清朗なる事、大形の金石の音量に比ぶべきものなし」と記していることによってもわかる。
隠岐の国造家蔵の駅鈴については、その絵図が幕末の有職故実家松岡行義の「後松日記」にも載せられているし、 別に幕末の儒医者茅原虚斎(ちはら きょさい)の「茅窓漫録」によると、隠岐の国の社司が駅鈴を宮中に献上したとあり、そこには、「形四角にて、 大きさ二寸ばかり、厚さ一寸ばかり、上に紐(もちて)ありて、両面に駅路鈴という三字を隠起(おきあげ)にし、鈴口は常の鈴に同じ」と記載されている。 先述の南谿の説明に「駅鈴の二字」とあったのに対して」、これは「駅路鈴といふ三字」とある点など、これらが皆、全く同じ 駅鈴についての説明であったかどうかは、簡単には決められない。別に藤原貞幹の「好古小録」には、「隠岐ノ国玉酢の神其伝ル所ハ枝ノ駅鈴一口、古製考フベシ。 実ニ希世ノ珍也」などの記述もあり、こうした各趣の異伝をもった文献が数多く伝えられているところに、隠岐の国の駅鈴に寄せた昔の人々の情熱が、いかに大きなものであったかが知られるのである。 そして、このことは、例えば、本居宣長が松平周防守から拝領した隠岐国造家伝来の駅鈴の模造品のように、当時、駅鈴を模造した金鈴が広く制作され、愛玩されていた事実によっても裏付けられよう。
こうした駅鈴ブームはやがて金鈴から土鈴へとその流行の輪を広げてゆく。先に引用した「茅窓漫録」に、「その駅鈴を陶器とし、間々世にあり」の素地が見られるから、 天保年間には、隠岐の国の駅鈴をかたどった土鈴が既につくられていたわけで、今日広く行われている駅鈴型土鈴の原型は、いち早くこの時代にまで遡ることが出来て興味深い。 なお、駅鈴としては隠岐国造家蔵のものに次いで記述の多いものが常陸の国鹿島明神正等寺(しょうとうじ)蔵の駅鈴である。 これは、隠岐の国の駅鈴とは全く違った形を備えており、「山伏の持てる錫杖の形のごとく長き物」(北窓瑣談)であり、「茅窓漫録」に「其の長(た)け一尺一分、耳目口鼻皆具わる、 形甚だ奇雅なり」と挿絵入りで解説されているように、「其ノ体人面ヲ模シ」(後松日記)たものであった。石上宣續が、これを図示して。「此物いにしへに云ふ駅鈴の鈴なりや」 (卯花園漫録)と軽い疑問をなげかけているが、この形の変化に、駅鈴の時代的変遷の跡を辿ることができるようだ。
初出 昭和53年(1978年)3月7日(火曜日)
本居宣長遺愛の鬼面鈴と八面型古鈴を土鈴にしたものです。
「七種鈴(本居家に伝わった7つの鈴)」はこれらの他に茄子鈴、養老鈴、鉄鈴、十字鈴、駅鈴があります。
また、本居宣長遺愛鈴をモデルにした三重県松阪市の銘菓・鈴最中も土鈴になっています。
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