鷹の鈴 所在確認と守護

 猫の首に鈴を付ける相談をした鼠の話はイソップ物語で有名だが、わが国で猫を飼う風習やその首に鈴を付ける習俗は、いったいいつ頃から始まったものであろうか。 既に前期縄文時代の遺跡から猫の骨が発掘されているから、人間と猫との交渉は、かなり古くからのものであったことが知られる。そして、文献では、「日本霊異記」に現れるのが、その始まりであった。そこには「狸」の文字でネコ(禰己)の音が表記されているが、後の「和名抄」でも、「家狸、一名猫、和名祢古末(ねこま)」と見えている。 さて、猫の文芸としては「枕草子」の<命婦のおとど>(一条天皇の愛猫で、日本の文献史上に登場する猫の名前としては最古の名前)の話、「源氏物語」の女三宮寵愛の唐猫の話、 「更級日記」の大納言の姫君の生まれ変わりの猫の話など、哀れ深い物語は多いが、残念ながら、それらの猫が鈴を付けていたという描写は全く見られない。 したがって、猫の首に鈴を付ける習俗がいつから始まったかは、さだかではないのだが、白い犬に鈴をつけて天皇に献上した例が、「古事記」の雄略記に見えているから、猫に鈴を付けることも案外、早く行われていたのかもしれない。

 人間の飼育する生物の中で、古く鈴とかかわりの深いものに、鷹がある。「万葉集」の東歌に、 都武賀野(つむがの)に鈴が音聞ゆ上志太(かむしだ)の殿の仲子(なかち)し鷹狩(とがり)すらしも(14-3438)という鷹狩りの歌が見えているが、この鈴は、鷹の尾羽に取り付けて、 その所在を知るための手掛かりとしたものであっただけに、例えば、大伴家持の愛した鷹には、「白銀の鈴取り付けて」(17-4011)とか、「白銀の小鈴もゆらに」(18-4154)と歌われているように、 銀メッキの鈴が用いられていた。ところが、この鷹に付けた鈴は、時には落ちて行方知れずになる事もあり、その鈴が貴重なものであったが故に、 「播磨風土記」に見られる「鈴喰岡(すずくいおか)」や「鈴掘山」などの地名伝説をも生じた。これは、応神天皇が落ちた鷹の鈴を探し求めたがみつからなかったところから、その岡や山にこう命名したというのである。鈴を失った者の諦めきれない思いが端的に表現されていて面白い。

 なお、鷹の鈴についての記録としては、「日本書紀」の仁徳記が最も古い。そこでは鷹狩りの起こりについてふれ、鷹の飼育を命ぜられた酒君(さけのきみ)が、鷹の尾に小鈴を付けて天皇に献ったことが記されている。 この鷹狩りの伝統は、その後プロフェッショナルな鷹匠という職業を生み出すに至って、鷹の鈴にも、「鈴子(すずこ)」(夜据物語)とか「鈴枝」(鷹故実抄)といった、いくつかの故実が考案されていった。

ともあれ、鷹の所在を確認する便法と考えられているこの鈴も、その根底には、「足結の鈴」同様、鷹の守護という呪的信仰が横たわっていたのかも知れない。 スモッグ一つない真澄の空に飛翔する鷹の鈴のすがすがしい音色は、いつまでも心に響いて消えることがない。

初出 昭和53年(1978年)3月3日(金曜日)

 

本日の一鈴 満珠干珠鈴

満珠干珠_海神社

 兵庫県・海神社(かいじんじゃ・わたつみじんじゃ)

満珠干珠土鈴は玉津島神社(和歌山市和歌浦)にもあるが、長門二ノ宮・忌宮神社(山口県下関市長府)のものも有名である。

ただ、その縁起については海神社は古事記の海彦山彦の物語に由来するのに対して 忌宮神社は神功皇后の名を挙げているがこれはそれぞれの祭神に因るからであろう。


本日の一鈴(番外) 白い犬に鈴

白い犬に鈴

 海老天たまこ作の古事記土鈴6種のうちの一つです。 『古事記』が撰上された和銅5年(712)から、ちょうど1300年目の節目の年に当たる2012年に作成されました。

 古事記下巻の「白犬の献上」では第21代雄略(ゆうりゃく)天皇は、即位後も強大な権力を行使し、豪族の立派な屋敷に激怒して火をつけようとしました。 驚いた豪族は、「謝罪のための献上品を差し上げましょう」と申し上げ、 白い犬に布を着せ、鈴をつけて、犬の綱を一族の人に持たせて献上しました。 そのため、雄略天皇は屋敷に火をつけさせるのを止めさせました。

 古事記シリーズの土鈴を作るにあたって、「鈴」の登場するお話としてこの場面を取り上げました。

 巻物の部分が土鈴になっていますが犬に付けられた小さな鈴も土鈴です。


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