ファッション 古代人が手首や足に

 「古事記」允恭天皇の軽太子(かるのたいし)の条に見られる宮人振(みやひとぶり)の歌の中に、「足結(あゆひ)の小鈴」と歌われているのが、 わが国の鈴の文献としては最も古いものであった。「足結の小鈴」は袴の裾をブラウジングさせて結んだ紐に、小鈴をつけたもので、 当時、鈴がこのように上流社会の代表的ファッションとして使用されていたことがうかがわれる。 これは、つまり、今日の若い女性に人気のあるケンゾー・イッセイのファッションのルーツであり、それに聴覚的なさわやかさを加味したスタイルを想像していただければよかろう。

 一方、この「足結の小鈴」に対して、「日本書紀」の履中天皇記に、「手の鈴」ということが見えている。 住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)が黒姫(くろひめ)の家に「手の鈴」を忘れて帰ったという記事で、その点、先述の軽太子の恋愛事件を指して、「足結の小鈴落ちにき」と歌ったのと、 その描写に見られる鈴の扱い方の共通点に、鈴に寄せた古代人の心がしのばれて興味深い。 ともあれ、この「手の鈴」は、現代のブレスレットともいうべき釧(くしろ)に付けられた小鈴であったとする解釈が、最も妥当といえよう。

 「万葉集」の長歌の一節に、まさき持つ小鈴もゆらに手弱女(たわやめ)に吾はあれども(13-3223)と歌われている「小鈴」は賀茂真淵の「万葉考」に、 「手にまける釧の鈴をいへり」とあるように、これもまた、「手の鈴」と同じものであった。しかも、「足結の小鈴」も「手の鈴」も、ともに当時の男女共通の風俗であったことは、 江戸後期の国学者・藤井高尚の「松の落葉」に、「いにしへの男女玉鈴を身のかざりとせし事」と述べられているとおりである。

 「万葉集」に足玉も手珠もゆらに織る機(はた)を公(きみ)が御衣(みけし)に逢ひあへむかも(10-2065)と歌われているのは、 手足に付けた「珠玉」であるが、今まで述べてきたように、「鈴」の付けられたものも大いにもてはやされたことは、容易に想像できよう。 こうして、足結や釧の装飾として鈴が用いられるようになると、縄文・弥生時代に比べて、まず何よりも大きな相違は、これらの鈴が土鈴ではなく、 すっかり金属製のものに変わったということである。 しかも、黄金・白銀の鈴が作られるに及び、貴族社会の文化圏にあって、鈴はますます精巧なものに仕立てられ、広く人々から愛玩されるに至った。 したがって、私の話は、しばらく土鈴から金鈴に移行する。そして、そこにわれわれの祖先が鈴に寄せた心を探ってみようと思うのである。

 今、一方、鈴の材質の変化は、やがて、鈴に対する観念をも大きく変えた。かつて祭祀の具として用いられ、 呪的信仰をその根底に持っていた鈴が装飾としての目的を見出していったのは、いわば、今日の熊追い鈴などの民俗に見られるように、鈴を身に付けることによって、 危害から身を守ろうとした鈴本来の目的からの、ごく自然の派生であったのである。

 


初出 昭和53年(1978年)3月2日(木曜日)

本日の一鈴 鈴釧(すずくしろ)の鈴

鈴釧の鈴

 今にも折れそうな危ない作品です。

 東京国立博物館にこのモデルと思われる鈴釧が収蔵されています。

  静岡県三島市西岩崎3563出土

  時代: 古墳時代 6c-7c

  大きさ: 直径10.0


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