両宮山古墳は5世紀の後半に築造された岡山県内では造山古墳、 作山古墳に次いで3番目、備前地域では最大規模の前方後円墳です。
全長は206mであり、後円部の径は116m、前方部の幅は145mで、前方部が発達した墳形をしています。高さは25mであり、墳丘は3段築成を呈しています。くびれ部の両側には極めて高い造り出しが設けられています。
古墳の築造当初は墳丘の周囲に2重の周濠が巡っており、外濠を含む古墳の総長は349mに達していました。現在は外濠の全てが埋没してしまい、水をたたえた幅約40mの内濠のみが確認できます。墳丘内部は未調査ですが、これまでのところ葺石や埴輪は見つかっていません。
1927年(昭和2年)4月8日、国の史跡に指定され現在に至っています。この古墳の周辺には和田茶臼山古墳、森山古墳、正免東古墳をはじめ、小山古墳、朱千駄古墳、廻り山古墳を含めて、吉備地域でも屈指の古墳群を形成しています。
2010年7月 赤磐市教育委員会 (現地解説看板より)
墳形 | 全長 | 後円部径 | 後円部高 | 前方部幅 | 前方部高 | くびれ部幅 | くびれ部高 | 年代 |
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前方後円墳 | 206 | 116 | 25 | 145 | 五世紀後半 |
遠景 南側からのアプローチ |
近くの看板です |
遠景 手前は備前国分寺跡です |
後円部 |
くびれ部 |
前方部 |
両宮山古墳と稚媛(わかひめ)伝説 今からおよそ1500年前、このあたりは吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)田狭(たき)という豪族が支配し、大和朝廷に並ぶほどの強い勢力を誇っていました。 両宮山古墳は、その田狭の墓ではないかと言い伝えられています。 田狭には稚媛という美しい妻がいましたが、あまりの美貌ゆえに雄略天皇が自分の后にしてしまいました。 任那の国司として派遣されていた田狭は、留守中に妻を天皇に奪われたことを知り、新羅と結んで天皇に背こうとしました。 怒った天皇は田狭の子で弟君(おとぎみ)に父を討つことを命じましたが、弟君は新羅へは向かわず田狭の軍と結ぼうとしました。 これを知った弟君の妻樟姫(くすひめ)は、夫に謀反の心があることを知り、弟君を殺してしまいました。 妻稚媛を天皇に奪われ、わが子弟君を殺された田狭の嘆きはどのようなものであったのでしょうか。 しかし、田狭のその後は「日本書紀」に記されていません。 それから十数年後、雄略天皇が崩御されると、稚媛は雄略天皇との間に生まれた星川皇子(ほしかわのみこ)を天皇にしようと 田狭の子・兄君(えぎみ)らとともに画策。皇太子白髪皇子(しらかのみこ)と争いましたが、やがて立てこもっていた大蔵に火が放たれて、最期を遂げます。 「日本書紀」には、滅びゆく豪族の姿と稚媛の数奇な運命がこのように描かれています。壮大な両宮山古墳は、今もなお、古代の悲しい物語を語り続けているのです。 赤磐市観光協会の現地説明板 |
う〜ん、何とも強引な雄略天皇のやり方。 白髪皇子は後の清寧天皇、雄略天皇の第三子で星川皇子からみると異母弟にあたる。 おそらくこの時代に、吉備地方は大和朝廷の勢力下に組み込まれたのだろうと思われる。
雄略天皇の生年/没年は允恭天皇7年(418年)12月 - 雄略天皇23年8月7日(479年9月8日)。吉備上道臣田狭も同時代で両宮山古墳の被葬者とすれば築造時期5C後半と合致します。