日本書紀に記載されている「壬申の乱」(天武天皇元年7月条中)に近江(大友皇子)軍と天武(大海人皇子)方が「上道(かみのみち)に当りて、箸陵(はしのはか)のもとに戦う」とあって、この頃(7C後半)も箸墓沿いを上ツ道が通っていました。
この箸墓古墳は3世紀中頃の築造であると考えられ、「前方後円墳」と言われる古墳の中では最古式の一つであると考えられています。また、邪馬台国の女王・卑弥呼(西暦247年頃死去)の墓との説で特に有名です。

上ツ道
上ツ道は箸墓の後円部をかすめるように通っています。
陵印
昔の陵印
このHP訪問の常連Iさんのコレクションです。画像をいただきました。

規模 単位:m
墳形全長後円部径後円部高前方部幅前方部高くびれ部幅くびれ部高年代
前方後円墳2801602212513  古墳時代・初期
3世紀中頃

後円部径の160mというのは倭人伝に書かれている卑弥呼の墓の大きさ「径百余歩」と符合しています。
また、箸墓の体積は30万立方メートルで造営には述べ135万人が動員されたと推計されています。
箸墓とほぼ同時期とされる兵庫県の西求女塚(にしもとめづか)古墳や奈良県の黒塚古墳などから 出土した三角縁神獣鏡の新旧関係から築造は西暦260年頃と推定されるようになり、以前に考えられていた時期より30~40年位時代を遡るようになりました。 それでも卑弥呼の死去(西暦247年頃)から墓の完成まで10年以上を要した大公共事業だったと思われます。
箸墓遠景

箸墓遠景

珠城山古墳群の上から西南方向を望む。その向こうに大和三山の耳成山、さらに向こうに畝傍山。
箸墓続き

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