栞バックナンバー 第3号④
古くから伊勢の内宮付近で売られていたもので、万の宝にあやかるという意味の護符である。長さ12㎝ばかりの竹を白紙で巻き、中央部分を赤く染め、両端には赤い綿をつけ、竹の両端をたるませた糸でつなぎ、その糸に小さい土鈴が1個取り付けてある。明治24年に刊行された清水晴風の「うなゐの友」の初篇には「伊勢の鈴御守り」として描かれている。長い間廃絶していたが昭和38年に岡山で開催された日本郷土玩具の会の全国大会に際し、参加者の土産品として伊勢市の川口貫一郎氏が復元製作された。「まんぼう鈴」と仮名が振ってある。また鈴の付いている糸は諸書では赤糸とされているが、川口氏復元のものは黄がかった糸が使用されている。
この万宝鈴は子供の初詣に用いた一種の筒守りであらうとの説がある(前記郷土玩具辞典)
「筒守り」は岩波古語辞典によれば『小児の御守り、1尺ぐらいの竹筒に守り札を入れ、錦で包み鈴付きの懸け緒で胸に掛け、外出の時は乗り物の前に掛けた』とある。
参考書 郷土玩具辞典 斎藤良輔著
郷土玩具(3) 土篇 牧野玩太郎著
竹とんぼ No.60 日本郷土玩具の会
古語辞典 岩波書店
この復元品は昭和39年2月上方郷土玩具会(第41回例会)の際にも出席者への土産として頒布された。
(補注) 清水晴風:明治時代の玩具研究者 1913年7月16日死去
川口貫一郎:東京こけし会の発起人の一人でこけしの蒐集家としてしられる。
戦後は郷里の伊勢に戻って「こけし」誌を刊行し続け、戦後のこけし界を支えた。
浅草神社(旧称:三社権現三社明神)の投網土鈴については、「おもちゃ」誌No.77で東京の玩具として二種類のものが寫眞で掲載されており(他に勾玉土鈴も見られる)「日本の土鈴 森瀬雅介氏」では社寺授与鈴の中に「網形入鈴」として一種掲載されている。浅草寺の縁起によると推古天皇36年(628年)豪族桧前浜成と竹成の兄弟が江戸浦・隅田川で漁をしていたとき、網に一寸八分の聖観音がかかったので御司土師直中知(はじのあたえなかとも)と共にこれを迎えて小堂を建立して安置したのが浅草寺の起源とされており、この三人を祭神としているのが浅草寺の鎮守浅草神社である。
土鈴の投げ網形はこの縁起によるものであろう。余談であるが浅草神社の祭神については浅草寺発行の「浅草ガイド」では土師直中知としているが、他に「土師直中知 はじのまなから」(柏原破魔子 ふるさと東京)、「村長土師中智 むらおさはじのなかとも」(山本鉱太郎 東京下町ぶらり散歩)等の諸書によって種々の文字、読み方の違いが見られるが伝説などではよくあることで、取り立てて詮索するほどのことではないが、何かを調査し、報告しようとするとき、他書の「ひようせつ(?)」は勿論もってのほかであるが、孫引きや引用する場合には特に慎重を期した方がよいのではないかと思われる。
以上の「鈴の情報」四篇は当日の鈴散歩、鈴の来歴を情報としてお話しいただいたので、文章にしていただきましたものを轉録しました。 玉稿を戴きました進藤勝哉氏、入佐憲正氏に厚く感謝の意を表したいと存じます。(川西誠治)