趣味の鈴・愛好家が創作

 昭和10年に発表された「全国おもちや大番付」鷲見東一編・蒐集趣味月刊雑誌『鶴城』発行所発行)についてはすでに述べたが、こうした番付が大いにもてはやされたということは、 少なくとも、その時代が郷土玩具熱のピーク時であったことのあらわれでもあった。したがって、土鈴もまた、郷土玩具熱の高まりとともに、戦前における土鈴ブームの時代を生み出していった。

 同じ年に出版された、佐藤潔著『玩具と縁起』や有坂与太郎著『郷土玩具大成(東京篇)』などの文献によっても、昭和初期から次第にはぐくまれていった土鈴ブームの概観がうかがわれる。

 なお、この翌年の昭和11年、『大阪朝日新聞』に十五回にわたって連載された東田清三郎氏の〈土鈴ばやり〉や、 また、同じ新聞の<土鈴を頒つ・・・近畿の寺院参拝記念に・・・>などの記事を引用してこうした日刊新聞にまで土鈴の掲載が眼につく社会現象から、 当時の土鈴ブームについて言及された森瀬雅介氏の<日本の土鈴>の解説(『大塚薬報』第224号所取)は、大変参考になろう。

 因みに、同氏の〈日本の土鈴〉は、『大塚薬報』の第220号から五回にわたって連載されたものであり、昨年(1977年9月)徳間書店から出版された「日本の土鈴」に、そのすべてが集約されている。

 さて、昭和10年頃をピークとした土鈴ブームの拠点が、京・大阪の関西地区と、名古屋地区と、北九州博多地区との三個所であったことは、 すでに土鈴の分布で述べた窯業の三拠点である清水焼・瀬戸焼・唐津焼の地域と重なっていて、興味深い。

 土鈴ブームの波に乗った趣味の土鈴だけを取上げてみても、その多彩な創作活動が窯業の本場と結びついている事実は、土鈴と窯業との密接な関係を端的に物語るものであったということが出来る。

 そして、これらの地域を中心として土鈴収集の愛好家の集まりが生まれるようになると、彼らは社寺の縁起に基づいた各種の土鈴を創作して、逆にこれを社寺に奉納するといった風潮が起こり、 この流行が社寺の授与鈴の多様化を進めるきっかけを作ったという例が、顕著に見られる。 それと同時に、この土鈴の愛好家たちは、趣味の会とか交換会を結成して、各自の凝った創作土鈴を交換して楽しむという流行を広め、ここに趣味の土鈴の花盛りが現出するに及んで、 土鈴ブームに一層の拍車を加えることとなったのである。

 しかも、京・大阪の数多い社寺に対する信仰や、博多人形師の洗練された技術に加えて、名古屋のように、郷土玩具界のすぐれた先輩たちからの情熱的な指導を受けるなど、 これらの要因がお互いに相侯って、昭和10年代の土鈴ブームを展開し、関西、名古屋、博多というそれぞれの地に、各種の素晴らしい趣味土鈴を作りあげていった。

 本日の写真に掲げた健駄羅仏(がんだらぶつ)の鈴は、フランスの博物館から京大考古学教室にもたらされた仏頭を模したもので、 昭和12年に、伊賀上野の趣味家・村治円次郎氏によって土鈴に作られ、同好の士に頒布された。この鈴を納めた桐箱の蓋裏に書かれたその由来の結びに「掘り出しの鈴とでも名命け玉はれかし」にあるのによっても、 当時の趣味家たち意気込みの一端がのぞいていて、面白い。なお、筆者の手許には、「昭和16年」「趣味の天王寺会」と陰刻文字の彫られたく宮島の大鳥居と波〉の土鈴があるので、 少なくとも昭和16年頃までは趣味の土鈴も命脈を保っていたことがわかる。もちろん、それ以後の戦争の厳しさから、土鈴はすっかり影を潜めてしまったわけだから、土鈴こそはまさに平和のシンボルであったことが、 痛感されるのである。


初出 昭和53年(1978年)4月7日(金曜日)

本日の一鈴 健駄羅仏(ガンダーラぶつ)の鈴 伊賀上野・村治円次郎作

健駄羅仏

 

 

 


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