分布 西高東低のもよう

 土鈴の誕生は窯業(ようぎょう)の発達と軌を一にしている。したがって、土鈴の分布が窯業の盛んな地域に広がっているのも、当然のことであった。 江戸末期の喜多村信節がまとめた「嬉遊笑覧」の<児戯>の項に、「続山井」の「風になるや鈴の子どものもてあそび」などの句を引用し、京都東福寺のあたりで土焼の彩色された鈴が作られ、 子供の玩具として親しまれていたことがみえている。 現在の今熊野・日吉町あたりは、伝統の清水焼の町であり、東福寺はまさにこの清水焼の栄えた東山の山裾に位置しているのだから、そのあたりで彩色された土鈴が早く作られていたとしても、何の不思議もない。

 今までもところどころで触れてきたように、土鈴の描写が眼につきはじめるのが近世になって急速に発展したことと関係を持つことはいうまでもない。

 清水焼は「陶器考付録」によると「慶長ノ頃ヨリ焼初ム」とあり、茶椀屋久兵衛がこの地に窯を開いたのがそのはじめと伝えられ、 その後、仁和寺の清兵衛こと仁清が産寧坂(三年坂)に窯を築いたのが今日の基となったといわれている。 その繁昌ぶりについては、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」(六編下)にも、「清水焼の陶造(すへものつくり)、軒を並べて往来の足をとどむ」と書かれているから、 その当時の様子は昭和の今日と少しも変わってはいない。

 なお、東山から伏見の山裾にかけて、清水焼の他、後には高台寺焼や粟田焼なども起こり、この一帯で長い年月にわたって作られてきた土鈴の種類とその数は大変なものと思われるが、 その全貌を把握することは、残念ながら容易なことではない。

 ともかく、五条坂下の店をのぞいて、高台寺の前を抜け、文之助茶屋の直ぐそばにある東山工芸の民芸店に足を向ければ、一応、清水焼土鈴のおおまかな現在の姿だけは学び取ることができる。 京都は別に伏見焼・嵯峨焼など、多くの窯業が栄えた地であり、八百八寺といわれる寺と数多い神社に恵まれているだけに、まさに我が国土鈴の一大メッカでもあった。

 陶磁器のことを一般に<せともの>と呼んでいるように、瀬戸焼の歴史は古い、鎌倉時代に、宋に渡って技術を習得した加藤藤四郎が、瀬戸の地に窯を築いたのがその起こりと伝えられ、 ここが日本の陶器発祥の地ともいわれる。それだけに、瀬戸を中心とした中部地方には、名古屋土鈴を始め、西尾市の富田土鈴と八ツ面焼きらら鈴、高山市の山田焼や小糸窯などの土鈴、犬山土鈴、 四日市の万古焼陶鈴など、なかなかの盛観である。

 東の<せともの>が、九州に渡ると<からつもの>とも呼ばれるように、唐津焼もまた陶器発祥の地として知られる。陶磁器の技術が大陸から伝えられたことを思うと、 北九州に唐津焼や有田焼や伊万里焼が栄えたのは当然の帰趨であった。ただし、北九州が土鈴王国を現出するに至ったのは、これらの窯元ではなく、昭和初期の土鈴ブームによる博多人形師の活躍によるものであった。

 備前焼・九谷焼・萩焼なども、最近では種々の土鈴を作り始めたが、これらの中では備前焼が一番早く土鈴の製作を試みたようである。その他、東京の今戸焼、栃木県の益子焼、 仙台の堤焼、横手市の中山焼など、土鈴と関係の深い焼き物もあるが、総体的に窯業は西日本に発達しているから、土鈴の分布も西高東低型である。土鈴の歴史は窯業の歴史でもあった。


初出 昭和53年(1978年)4月6日(木曜日)

本日の一鈴 きらら鈴 (愛知県・西尾市)

きらら鈴 (愛知県・西尾市)

 愛知県西尾市八ツ面町
八ツ面(やつおもて)焼の窯元・松田民芸品・松田克己氏作

 きらら鈴は三河瓦土に八ツ面山から産出されたきらら(雲母)をちりばめて焼いた土鈴で、美しくキラキラ光って愛と幸せのシンボルとされています。

 


脚注 嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)

 喜多村信節が江戸時代後期の風俗習慣、歌舞音曲などについて書いた随筆。天保1 (1830) 年発刊。 各巻上下2章から成る全12巻と付録が1巻。各項目を和漢古今の文献を引用して解説し、 体系的に整理した百科事典的な書物で、江戸風俗を知る有益な資料として知られる。


脚注 藤四郎

 尾張国瀬戸焼の祖とされる加藤四郎左衛門景正の家系を継ぐ陶工の俗称。1世加藤四郎左衛門景正が略称「藤四郎」といったことに始まる。 景正は貞応2 (1223) 年僧道元とともに渡宋し,製陶法を学んで帰朝し,陶器に適した土を求めて諸国を巡歴して瀬戸でこれを見つけ,ここに瀬戸焼を開いたという。 以来,12世基時まで続いた。茶入れでは特に2世基通の作品を「藤四郎」と称する。


文章は原則として初出のまま、
注釈や画像は必要に応じて
本Webページの管理者の
責任で追加しています。

Copyright (C) 猫饅頭@大和の土鈴