北の鈴・南の鈴 古雅な形、澄んだ音色

 神社の鈴守りの多様化で、ひときわ印象の深かったのは、北海道神宮である。 それは、昭和46年10月の上旬、帯広の学会に参加した後のこと、さいはての町釧路に啄木の人と文学を偲んだ帰路、札幌に戻って詣でた北海道神宮の社務所に数種の土鈴が並んでいたのに眼を見張った日の驚きは、 今も忘れることができない。元来、北海道は郷土玩具不毛の地といわれ、せいぜい、アイヌの木彫りの類がその民芸品の中心となっていただけなのだから、土鈴に至ってはその存在自体が大変な希少価値を持っていた。

 筆者はこれより前、すでに3回北海道を訪れているが最初の昭和32年8月の15日間の旅でも、同38年7月の9日間の旅でも、ほとんど北海道全域の観光地を回ったが、 そのどこでも土鈴を眼にすることはなかった。また、同じ38年の9月にも北大の学会で札幌に出かけたが、この時も札幌の繁華街狸小路のどの店でも土鈴は全く見かけなかったのに、 46年の北海道神宮で授与鈴を入手した同じ日、狸小路の民芸品店でも<熊抱き酋長>の大きな土鈴や<じゃがいも>の土鈴など何点かが手に入ったから、北海道に土鈴ブームの波がそろそろ押し寄せるようになったのは、 ほぼ昭和40年頃をエポックとして、それ以後のことであったことがわかる。

 さて、この北の北海道に対して、南の沖縄では土鈴はどんなであったろうか。筆者が初めて沖縄に旅をしたのは沖縄の施政権が日本に返還されて、本土復帰がようやく実現した翌年の昭和48年7月であった。 ハイビスカスやブーゲンビリアの花の咲いたエキゾチックな那覇の街を、おのぼりさんよろしく歩いてみた結果、そこで発見した2,3の土鈴は生粋の沖縄産ではなく内地から持ち込まれた、いわゆる観光土鈴に過ぎなかった。

 しかし、那覇には長い伝統を誇る壺屋の窯業が伝えられており、この機械化時代にあっても、なお、 蹴轆轤(けろくろ)を使って手作りの焼き物を作っているところに壺屋焼きの魅力があるということを耳にしていたので、ひょっとしたら土鈴があるかもしれないと淡い期待を寄せながら壺屋へ見学に出かけた。

 その際、偶然琉大講師新垣栄三郎さんのお宅で、陳列棚に飾られた3個の古い土鈴に遭遇する機会を得たことは大変幸せであった。 ちょうどご主人は不在で奥さんから色々と親切な話を伺ったわけだが、その説明によるとこの鈴は古い窯の跡を発掘した時に見つかったもので全部で12個ほどあったが、完璧な形を維持していたのは、その3個だけとのことであった。 しかも、手に取って振って御覧なさいと言われて音色をたしかめたところ、1個だけは音が出なかったものの他の2つは、それぞれに快い音をたてた。

 近世末期ごろの作だというその土鈴の古雅な形と澄んだ音色とは、今なお心に染みて忘れられない。しかも、わが国の土鈴のルーツが広く東南アジアに求められるとすれば、 その立地条件から大陸との橋渡し的役割を担う沖縄に、こうした土鈴が見つかったことは実に意義深いことであった。

 しかし、この時点にあって、壺屋では土鈴の製作が中断されており、思いを残して沖縄を去ったことであったが、昭和52年夏、娘の沖縄土産に壺屋焼きの陶鈴があったことから、その復活を知った。 こうして、土鈴ブームは日本列島を北から南へと波及していったのである。


初出 昭和53年(1978年)4月5日(水曜日)

本日の一鈴 シーサー鈴 (沖縄)

唐獅子鈴

 シーサーは、沖縄県などでみられる伝説の獣像。建物の門や屋根、村落の高台などに据え付けられる。 家や人、村に災厄をもたらす悪霊を追い払う魔除けの意味を持ち、屋根の上に設置されることが多い。

 名前は「獅子(しし)」が沖縄風に訛って「シーサー」となったもの。

 


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