多様化 一社から六種類も

 「伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕さまへは月参り」などと歌われた民謡は、信心はどんなに多くても多すぎることはないの意味だが、この歌詞の最初に伊勢神宮が挙げられているところに、 庶民の伊勢信仰が如何に盛んなものであったかがわかる。事実、伊勢神宮は誰でもがその生涯に一度は詣でる聖地とされ、戦前までは日本人の信仰のメッカとして賑わった。

 勿論、伊勢神宮の歴史は古い。皇室の祖神を祀るこの社は、本来、庶民とは何のかかわりもなかったが、中世以降、庶民との結びつきが生まれ、 特に近世にはじまった<お蔭参り>や<伊勢講>などが、伊勢信仰を庶民的なものとして広め、明治になって、それは国民的信仰の中心として揺るぎのないものとなった。 従って、神宮から鈴守りが授与されるようになると、これが沢山の人々から広く支持されることになったのも、当然の成り行きであった。

 さて、伊勢神宮と土鈴とのかかわりでは、先ず、<おかげ鈴>が見られる。 これは明治二三年、伊勢大願のお蔭参りが行われた際、宇治橋のほとりで伊勢参拝の記念として売られたものであったが、これを模して復元した土鈴が、昭和九年に作られている。 戦前、神宮の鈴守りとして、内宮からは<万宝鈴>が、外宮からは<団子鈴>が授与されていたが、これらは早く廃絶してしまった。

 かつて、筆者が学徒出陣の出征を祈念するためと、無事に生還できたお礼参りの為に訪れた戦中戦後の厳しい時代は、まだまだ土鈴とは無縁の時代でもあった。 しかも世の中がすっかり落ち着いて、久しく歳月の経過した昭和四二年四月三日、桜の美しい季節に参拝した折にも、社務所にはまだ授与土鈴は見当たらなかった。 ところが、昭和四七年五月二〇日に訪れた時には、まさに土鈴の花盛りで、社務所から、<干支五十鈴>、<五十鈴大橋>、<神功鈴蘭陵王>、<神功鈴神鶏>の四種類が授与されていた。

 従って、伊勢神宮における土鈴の復活は昭和四二年から四七年の間ということになろう。いずれにしても、神社の鈴守りは霊験あらたかな呪物として授与されたものであり、 本来は一種類のみあれば事足りたわけだが、それがこのように一社から数種類もの土鈴を授与するといった多様化を見せているところに、観光化に伴う土鈴ブームとの密接な関係がうかがわれるのである。

 その点、最も華やかなのが熱田神宮である。先述の昭和四七年、伊勢参拝で土鈴の多様化に驚かされた翌日、松阪から名古屋に出て、久しぶりに熱田神宮に詣でたところ、 ここは伊勢神宮よりも土鈴の多様化はさらにめざましく、<神鈴>、<初宮鈴>、<浦安鈴>、<福槌鈴>、<巻藁鈴>、<庚戌神鈴>の六種類が授与されていた。 さすがに、かつて昭和十年頃までの土鈴ブームの一中心をなした地域に鎮座する神社だけのことはあると思った。

 これらの授与鈴の中で、最も伝統のあるのは<神鈴>であり、今日では素焼きであるが、以前は白・黒の二種類が作られていた。 なお、熱田には<厄除け>と<虫封じ>とのそれぞれ三個一組の素焼きの小土鈴もあり、これが鈴守りの原型であったと考えられる。

 この前年の昭和四六年四月七日に訪れた多武峯の談山神社にも、<厄除獅子頭鈴>、<雷神鈴>、<狛犬鈴>、<一三重の塔鈴>、<蹴鞠鈴>、<干支神鈴>の 六種類の授与鈴があったから、神社における土鈴の多様化は、おおよそ、この頃から始まったもののようである。


初出 昭和53年(1978年)4月4日(火曜日)

本日の一鈴  名古屋・熱田神宮授与鈴

名古屋・熱田神宮

 神鈴、初宮鈴、巻藁(まきわら)鈴

 初宮鈴は元来、初宮参りで犬張り子を授与する習慣があり、その張り子の代わりに犬を象った土鈴となったものです。

 巻藁鈴は6月5日「熱田祭り(しょうぶ祭り)」の際、熱田神宮東門前に飾られる献灯巻藁を象ったものです。 ローソクを入れたたくさんのちょうちんが暗い森の中で豪華に映るそうです。

 


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