宝珠鈴 厄除け縁起物

 「備後国風土記」の逸文に、昔、蘇民将来と巨丹将来の二人の兄弟が住んでおり、神の訪れを歓待した貧しい兄の蘇民とその家族が、 神の加護に預かり、茅の輪を腰に付けて、疫病から免れたのに対し、神の来訪を拒絶した金持ちの弟の巨丹一族は滅びてしまったという話がある。

 それ以後、疫病がはやった時、蘇民将来の子孫と称して茅の輪を腰に付ければ、決して病気にかからないという。 茅の輪はチガヤを束ねて輪にした疫病除けの呪具であり、六月晦の夏越しの祭りに大きな茅の輪を作って、それをくぐる行事は、広く日本各地の神社で行われている。

 さて、蘇民将来といえば、上田市の信濃国分寺八日堂から、毎年1月8日の縁日に授与される魔除けの護符の<蘇民将来>が最も有名である。 これは、ドロヤナギの木を六角の塔状に刻み、その各面に黒と朱とで交互に、「大福、長者、蘇民、将来、子孫、人也」の文字を記したもので、東京の近くでは奥武蔵の飯能の竹寺から授与される<蘇民将来>がほとんどこれと形が似ている。 なお、「備後国風土記」の逸文では、訪れてくる神が須佐之男命と習合しているため、愛知県の津島神社などが早くから<蘇民将来>の符を授与してきたのは当然の帰趨であった。

 須佐之男命が荒ぶる神の日本の代表とすれば、毘沙門天は忿怒(ふんぬ)の相を持った、仏教守護の武神として知られている。 その毘沙門天を祀ったお寺の中で、代表的な授与土鈴として有名なのが大阪日本橋筋の大乗坊毘沙門堂の宝鈴である。

 これはかつて初寅の節分の日に授与された宝珠型の鈴で、毘沙門天が片手に捧げた宝塔の中に納められた如意宝珠を象ったものである。如意宝珠は、例えば、宮城県岩沼の竹駒神社の宝珠鈴のように、 玉の頭部及び左右の側から火焔が燃え上がっているのが普通だが、この大乗坊の宝鈴には火焔はない。なお、この宝鈴は、宝珠型の形は同じだが、授与された年によって、その彩色とか文字の有無とかの変化が見られる。

 筆者所有のものは緑・黒・赤・白・黄の五色がその周囲を帯状に彩ったもので、文字は一字も書かれていないが、他に黄・黒・赤・白・黄と彩色され、その白色の部分に福を招来する文字の書かれたものもある。 厄除け・開運の呪として、<蘇民将来>と同じように、めでたい言葉が書かれるのは鈴にとっても決して新しい着想ではなかったようだ。 その証拠に、江戸文政年間の松浦静山の随筆「甲子夜話」に、「奥州粟原郡仙台領に金成村といふあり。其処に八幡社あり。其の社地より小鈴を掘出す。其の鈴に八字を刻す。福寿延長子孫盛栄の文也」という筆録がすでに見えている。

 この鈴は、地が古銅で、上に金メッキを施し、重さは八匁九分三厘だとあり、鈴の片面と底との両図が描かれているが、「福寿延長子孫盛栄」の八字はまさに長寿と一家の繁栄とを祈念した呪文であった。 こうしてみると、大乗坊の宝鈴にも、縁起物としての土鈴の歴史の跡が偲ばれて興味深い。


初出 昭和53年(1978年)3月28日(火曜日)

本日の一鈴 宝鈴 大乗坊毘沙門堂 (大阪市)

宝鈴 大乗坊毘沙門堂

 

 

 


本日の一鈴もう一つ 蘇民将来鈴

蘇民将来鈴

 大阪やつで会が昭和11年紀元節に作成した蘇民将来鈴です。

 大阪やつで会のメンバー(西田亀楽洞、村松百兎庵、梅谷紫翠、鹽山可圭、粕井豊誠、中西竹山、芳本蔵多楼、青山一歩人、河本紫香)が連名で書かれています。

 この土鈴は日本土鈴館の丸山卯三郎コレクションの中に見ることが出来ます。


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