たまチャンの部屋HOME「土鈴の部屋」のメニュー ≫古墳にコーフン 古代・吉備の国

「邪馬台国」の所在は「九州か?」「畿内か?」、奈良県桜井市の纏向遺跡の発掘と箸墓の存在で畿内説が大きくリード。もし、箸墓を発掘して三角縁神獣鏡が出土すればダメ押し・・・という状況です。 しかし、「九州か?」「畿内か?」の二者択一に決めつけて良いのでしょうか。古代、吉備(岡山)は日本の中心地のひとつであったことが明らかになってきました。その論争に 向けていよいよ本命「邪馬台国吉備説」を中心に古代史への議論を深めてみれば、「謎解き」の過程において「日本人」の本質に迫ることが出来るのではないでしょうか?

両宮山古墳土鈴  稚媛(わかひめ)伝説をご存知ですか?

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 今からおよそ1500年前、このあたりは吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)田狭(たき)という豪族が支配し、大和朝廷に並ぶほどの強い勢力を誇っていました。 両宮山古墳は、その田狭の墓ではないかと言い伝えられています。  田狭には稚媛という美しい妻がいましたが、あまりの美貌ゆえに雄略天皇が自分の后にしてしまいました。 任那の国司として派遣されていた田狭は、留守中に妻を天皇に奪われ、またその後に子供も殺されてしまいました。  それから十数年後、雄略天皇が崩御されると、稚媛は雄略天皇との間に生まれた星川皇子(ほしかわのみこ)を天皇にしようと画策しましたが争いに敗れ、最期を遂げます。  滅びゆく豪族の姿と稚媛の数奇な運命がこのように「日本書紀」に描かれています。壮大な両宮山古墳は、今もなお、古代の悲しい物語を語り続けているのです。  (以上は赤磐市観光協会の現地説明板を参照しました。)

 樹木に覆われた現在の古墳の姿、作られた当初の古代の姿、そこにイメージする稚媛の姿を土鈴にしました。近くのミニ古墳(陪塚・和田茶臼山古墳)もカワイイので後円部にくっつけました。物語を思い浮かべていただければ幸いです。  底部にも稚媛を描きました。また、鈴口の「?」は「田狭の墓」という伝承がある一方で、大和朝廷派が作りかけたものの未完成で放置され、結局は誰も葬られていないかもとも言われているため「被葬者は・・・?」ということを示しました。

2014年3月作品

こうもり塚古墳土鈴 黒姫伝説

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 吉備路のシンボルとも言うべき備中国分寺のすぐ近くに6世紀後半に自然の丘陵を利用してつくられた全長約100mの 前方後円墳「こうもり塚古墳」があります。 内部の石室は巨石を用いた横穴式石室で、長い羨道とその奥の玄室とからなっており、玄室には家形の大きな石棺がおさめられていたとのことです。  こうもり塚古墳の主は、黒姫ではないかという言い伝えがありました。その黒姫は16代仁徳天皇の妃になったものの、皇后である磐之媛命の嫉妬のために故郷の吉備へ逃げ帰ったので天皇は磐之媛命の目を盗んで黒姫に会いに来たということです。大和と吉備の結びつきを示すエピソードだと思えます。

 余談ですが、仁徳天皇陵は大阪府堺市にあり、 皇后の磐之媛命陵は奈良市にあります。これだけ離れていれば、仁徳天皇は磐之媛命のヒステリーに悩まされることなく安らかに眠っておられるのかもしれないですネ。

 この土鈴は 樹木に覆われた現在の古墳の姿、そして作られた当時の古代の姿、その対比を元に被葬者として黒姫を座らせました。しかし、実際は仁徳天皇の時代より1世紀くらい後に作られたもので黒姫の塚ではないということです。以前は 訪れる人も少なく、コウモリの住処となっていたため「こうもり塚古墳」と呼ばれていたため、コウモリも飛ばせてみました。

 また、底面にはレンゲ畑に囲まれた備中国分寺の五重塔を描きました。 吉備路の春景色を感じていただければ嬉しいです。

2014年3月作品

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