秀長家紋

奈良県 大和郡山市

豊臣秀長の家紋土鈴。
豊臣秀吉の弟、大和大納言秀長が大和を治めていたことで、その家紋を模った土鈴。
秀長が郡山城主だった時に五条山で陶器を作らせたのが赤膚焼のルーツとも言われこの土鈴も赤膚焼で作られています。
  

  
 
秀長家紋 大納言塚 大和郡山城
秀長家紋土鈴 大納言塚
豊臣秀長の墓所
大和郡山城
 
豊臣秀長と大納言塚 
豊臣秀長(1540〜1591)は、豊臣秀吉の異父弟で、兄秀吉とともに戦国時代に活躍した武将である。天正十三年、(1585)、和泉・紀伊・大和におよぶ100万石の所領を有し、郡山城主となった。郡山城の建設に本格的にとりかかるとともに、「箱本」制度という独特な町方自治を行い、また、城下の商工業を育成し、今日の郡山の基礎を築いた。 
天正19年(1591)1月22日、郡山城内で没した秀長(享年51歳)は、この大納言塚に葬られた。当初、今の芦ヶ池近くに豊臣秀吉が菩提寺大光院を建立し、院主に古漢和尚を当てて墓所の管理を行った。豊臣家が滅んだあと、大光院は藤堂高虎によって京都に移築され、秀長の位牌は東光寺(のちの春岳院)に移された。その後墓地は荒廃したが、安政6年(1777)、位牌菩提寺春岳院に僧が郡山町内の協力を得て外廻りの土塀を作り、五輪塔を建立した。高さ約2メートル。 
(この説明部は大和郡山教育委員会が作成した大納言塚現地の説明表示板を参考させていただきました)

今回のギャラリーとして家紋を表現した土鈴を集めてみました。まずは同じ豊臣家   
  

高台寺 家紋
京都高台寺の厄除け土鈴。高台寺といえば豊臣秀吉の正妻、北政所(ねね)が秀吉の菩提を弔うために慶長10年(1605)に開創されたお寺です。通称「五七桐」と呼ばれる豊臣家の家紋に加え菊のご紋が描かれています。


家紋
 


明治神宮 明治神宮の菊の御紋


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このページは2004年 2月 1日に更新されました。
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