大和政権が、大和から河内そして和泉に進出し、現・仁徳陵古墳をはじめとする巨大古墳が作られた5世紀の半ば。紀伊から和泉(堺)へ向かう海の交通路としてその中間地点となる岬町は大阪湾の入り口である要因から非常に重要な地域であったようです。その有力な根拠は、岬町には、この狭い平野の中に西陵古墳、宇度墓古墳と大きな前方後円墳が2基も存在していることであります。
この宇度墓は垂仁天皇第2皇子五十瓊敷入彦命(いにしきりひこのみこと)の陵墓とされ、宮内庁の管轄下にある「陵墓参考地」です。
墳形 | 全長 | 後円部径 | 後円部高 | 前方部幅 | 前方部高 | くびれ部幅 | くびれ部高 | 年代 |
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前方後円墳 | 170 | 110 | 120 | 5世紀中頃 古墳時代中期 |