歩いて、見て、古代を感じてみませんか?
JR桜井線巻向駅から西へ桜井市立纏向小学校の北側に位置する古墳です。まきむくを巻向と書いたり纏向と書いたりヤヤコシイけれど「巻向」は万葉集1100に柿本朝臣人麿の「巻向之 痛足之川由 往水之 絶事無 又反将見」『巻向(まきむく)の痛足(あなし=穴師)の川ゆ往(ゆ)く水の絶ゆる事なくまたかへり見む』という歌が見られるほど古い。
一方、纏向も景行天皇の宮を大和国纏向日代宮 (まきむくのひとろのみや)というように日本書紀にも出てくる地名だそうです。
由緒という意味では引き分けでしょうけれど古墳群を表す時には「纏向」の方を用いるようです。
ところでこの勝山古墳は三輪山の北側から西流する巻向川が形成した扇状地上に立地し、纏向型前方後円墳の一つと考えられています。
墳形 | 全長 | 後円部径 | 後円部高 | 前方部長 | 前方部高 | くびれ部幅 | くびれ部高 | 年代 |
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前方後円墳 | 115 | 70 | 7 | 45 | 26 | 古墳時代前期 |
前方部はやや長く直線的に開く形態を呈すしています。埴輪や葺石は無く埋葬施設 の構造は不明だが、墳丘周辺の調査では幅約20m、深さ約1m と比較的浅い周濠が確認され、多量の遺物が出土していいます。 これには庄内2式期(3世紀前半)を主体とするものと庄内3式期 ~布留0式期(3世紀後半)を主体とする一群があり、築造時期にも諸説あり時期の特定には決め手を欠いています。
この古墳を特に有名にしたのは「周濠から出土した建築部材(ヒノキ材)を年輪年代測定法で調べた結果、三世紀初めに築かれた、わが国最古の古墳であることがわかった」との奈良県立橿原考古学研究所の発表(2001年5月)です。
中国の史書「魏志倭人伝」に登場する女王・卑弥呼(ひみこ)の墓といわれる箸墓古墳より先行する訳で古墳時代の始まりがそれまで考えられていた年代より半世紀近くさかのぼってしまいました。
したがって邪馬台国の時代(二世紀末~三世紀後半:弥生時代)がすでに古墳時代だったことを意味し邪馬台国は初期ヤマト政権だったという畿内説に弾みをつけました。
尚、主体部の内容など、詳しい調査は行われていませんが第二次大戦中に墳頂が削られて高射砲陣地として利用された為に主体部が遺存している望みは薄そうということです。