萱生(かよう)環濠集落の辺り一帯は、奈良盆地でも有数の古墳密集地帯で「萱生(かよう)の千塚」と呼ばれています。
歴史街道スタンプ |
萱生町付近 |
萱生町付近 |
墳形 | 全長 | 後円部径 | 後円部高 | 前方部幅 | 前方部高 | くびれ部幅 | くびれ部高 | 年代 |
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前方後円墳 | 120 | 62 | 10 | 85 | 7 | 5世紀終り 古墳時代中期 |
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主軸を南北に向け、北側が2段の前方部、南側が3段の後円部。後円部を南に置いたのは付近では珍しいスタイルです。
幅約20mの馬蹄形の周濠も残されています。古墳自体が傾斜地に築造されているため周濠は4つの池に分かれています。
5世紀終りとこの一帯では飛びぬけて新しい古墳で、この北の西乗鞍古墳と同時期と推定されています。埋葬の主体はまだ発掘調査がなされていないため明らかで有りません。しかし、西殿塚古墳が継体天皇皇后の手白香皇女の衾田陵ではないので時代的にはこの古墳が衾田陵である可能性があります。
現在は全体が蜜柑畑になっており、山の辺の道の西側の濠の向こうに姿を見せてくれます。
墳形 | 全長 | 東に向いた後方部南北幅 | 東に向いた後方部東西幅 | 西に延びる前方部長 | 西に延びる前方部幅 | 年代 |
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前方後方墳 | 144 | 52 | 46 | 90 | 14 | 3世紀後半(4世紀前半?) 古墳時代初期 |
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前方後方墳と推定されていますが、前方部が開かない古い形態の大型前方後円墳とも言われています。
葺石(ふきいし)と多量の埴輪も発見されています。
山の辺の道には後方部が面しています。