第16代 仁徳天皇の皇后磐之姫命(いわのひめノみこと)のお墓・平城坂上陵(ならノさかノうえノはか)は
現在、佐紀路にあるヒシャゲ古墳が充てられています。
ところが今の位置に治定されたのは明治になってからで、その前のヒシャゲ古墳は平城天皇陵とされていたようです。
そして磐之媛墓=平城坂上墓はというと、清少納言が枕草子第十七段に「みささぎは うぐひすのみささぎ。かしはぎのみささぎ。あめのみささぎ。 」と書いている「うぐいすのみささぎ」でした。その鶯陵とは「大和若艸山之頂字鶯陵」で山焼きで有名な若草山(標高341.8メートル)の山頂にある全長103メートル、前方部幅50メートル、後円部径61メートル、高さ9メートル、南に前方部をもつ古墳時代前期築造の前方後円墳のことです。
また、前方部付近に10m程度の陪塚(?)が4つ残っています。
1936年9月3日、史跡に指定。
若草山のスタンプ
前方部から後円部を望む |
後円部 |
若草山 山頂の鶯陵石碑 |
山頂付近から東大寺大仏殿を望む |
鶯陵と書かれた石碑は享保18年(1733)大和志の編者並河永が、鶯陵を磐之媛陵墓とし、東大寺の僧康訓とともに建てた。(写真)は碑の正面で、裏面には「享保18歳次癸丑9月良辰東大寺大勧進上人康訓建、延喜式日平城坂上墓、清少納言謂之鶯陵、并河永誌」とある。