蚕鈴 品質の向上を願う

 しならく、記紀・万葉に現れた昔の鈴を取り上げて、鈴の持つ意義やその用途の一端について述べてきた。 まだまだ触れなければならない鈴は多いが、私の話も、この辺で今度のテーマの土鈴の世界に戻していこう。

 昭和10年5月に発表された「全国おもちゃ大番付」(鷲見東一編、蒐集趣味月刊雑誌「鶴城」発行所発行、 (ただし、この番付はそれを収めた上袋には「全国郷土玩具大番付」と印刷されているから、「郷土玩具」を「おもちゃ」と読んでいることが知られるものの、 内容と上袋とで表記法が異なっているのは珍しい)によると、「東之方」百七十四種、「西之方」百七十四種、計、東西三百四十八種の郷土玩具が挙げられており、 その中に十種の土鈴が見られる。

 まず、「東之方」としては、美濃の美江寺蚕鈴(前頭二枚目)、甲斐の御嶽土鈴(前頭三十八枚目)、越中富山の土鈴(前頭七十八枚目)、岩代福島のまさる(前頭百三十枚目)の四種。 そして、「西之方」には、大隅の国府八幡鈴(前頭十一枚目)、大阪の大乗坊宝鈴(前頭七十八枚目)、豊前の英彦山土鈴(前頭八十五枚目)、讃岐の琴平土鈴(前頭百一枚目)、 豊前の宇佐八幡土鈴(前頭百二十四枚目)、伊勢の鈴守(前頭百四十九枚目)の六種が載せられている。

 今、この番付を眺めてみると、わが国の窯業と土鈴との関係とか、土鈴分布の実態とか、あるいは、信仰的呪物から郷土玩具への土鈴の移行など、 いろいろのことが考えられるが、特に郷土玩具の立場から見た、当時の土鈴に対する一つの評価が伺えるのは誠に興味深い。 この十種の土鈴の筆頭に揚げられた美江寺の蚕鈴は、今日作られている土鈴の中でも、その色彩の華やかさ、そのおおらかで柔らかい音色、さらには、釜・宝珠・米俵・七福神などの大小十数種に及ぶその多種多様さから、 全国土鈴の代表として、広く人々から親しまれている。

 岐阜市の大日山美江寺の縁起については、 江戸中期の儒登野信景の随筆「塩尻」(壱之十四)に本尊の十一面観音はもと伊賀の国の伊賀寺(名張市の夏目廃寺)の本尊であったものを養老元年に養老の滝に行幸された帝(第四十四代の元正天皇)が、 右大臣長屋王に命じて寺を建立させ、そこに本尊を移したが、後世、斎藤道三が再びこの寺をこの地に移したものであると記されており、由緒正しい寺であったことが知られる。 お蚕祭りと呼ばれる美江寺の祭礼は、以前は陰暦1月30日に行われていたが、戦後の昭和四十五年になって、新暦の3月1日に改められた(今は3月の第1日曜日)。 そして、この祭に境内で売り出される蚕鈴を求めて、蚕室で鳴らすと、天敵の鼠を駆除でき、蚕の出来が良いと昔から言い伝えられてきた。この蚕鈴の起源は、 寺伝によれば織田信長の時代とも、また、一説には五代将軍綱吉の時代とも伝えているから、今日と違った鈴本来の呪的信仰に基づく素朴な鈴が早くから授与されていたことが推測されるだろう。 しかし、今日の養蚕業衰退に伴い、すっかり淋しくなってしまったお蚕祭りに行きあった時、かつて筆者が岐阜の梅林小学校に学んだ昭和の初期、 境内参道の両側を埋め尽くした鈴市の賑わいは、今では遠い日の空しい白昼夢に過ぎない。

 


初出 昭和53年(1978年)3月9日(木曜日)

本日の一鈴 蚕鈴(岐阜・美江寺)

蚕鈴(富田土鈴_六代目中島一子 作)

富田土鈴(起土人形) 六代目中島一子作

 起土人形とは愛知県旧中島郡冨田村(現在の一宮市)に伝わる土人形です。江戸の中期、名古屋で技術を学んだ陶工が冨田村で人形を作り始めました。 犬山土人形の影響を受け、大型の人形や歌舞伎ものが多く作られました。

 

脚注 美江寺縁起

 当寺は大日山美江寺と号し、第四十四代の元正天皇の勅願によって開創せられ、開基は勤操和尚である。本尊は脱乾漆十一面観世音菩薩にて、もと伊賀国名張郡伊賀寺に安置されていたのを、美濃本巣郡美江寺の里に移したものである。

 この地は木曽、長良、揖斐の三大川が、あたり一帯網の目のように流れ、住民が年々洪水に悩み苦しんだのを哀れまれて、救済のため、霊験あらたかなこの伊賀寺の本尊をお迎え移したと伝えられる。伊賀寺には、寺、王の切願により後項の三仏を残し、名前も座光寺 と改められた。

 霊亀二年(七三ハ)、元正天皇は観音の霊験を聞召され、行幸の御事あり、年号も養老と 改められたが、越えて養老三年(七一九)六月十八日、長屋王に勅して、美江寺の里に伽藍 建立を発願され、同七年七堂伽藍が出来上ったのである。

 「美」は「静か」に通じ、「江」は「川」を表します。川が静まり、洪水がおきませんようにとの願いを込めたお寺の名前なのです。


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