鈴船 官船の印に使う

 「日本書紀」に現れる古い鈴に、今一つ「鈴船」がある。

 難波人 鈴船取らせ 腰煩(なづ)み その船取らせ 大御船(おおみふね)取れ この歌は仁徳天皇が三〇年秋九月に、皇后の乗った船の帰りを待って詠まれた御製で、「難波人よ 鈴の船を 曳きなさい 腰まで水に入って その船を曳きなさい皇后の乗船した船を曳きなさい」の意味なのである。

 さて、この「鈴船」について、後世、これを単に「鈴以て飾れる船也」(私記)といった抽象的な解釈も生じたが、茅原虚斎(ちはら きょさい)が「茅窓漫録」の<駅路鈴>の項で、「水駅に船を置く事は、駅牧令?に見えたれば、駅鈴を掛けたるべし」「古へは此の駅鈴を掛けたる船を駅船といふ」などと述べているのが、当を得た解釈といえそうだ。 つまり、駅馬に駅鈴を付けて朝廷の印にしたと同様に、官船にも鈴を付けてその印にしていたのであろう。「茅窓漫録」には、さらに、千五百番掌台?に見られる類昭?の、

 鈴船を寄り来る波に驚きて須磨の上野に雜子(きざす)鳴くなり

の歌(歌合の歌とは異同が見られる)を引用して、作者を別に行平(在原業平の異母兄)とする説により、 「中納言行平須磨へ左遷の時、船に此の鈴を掛けたるを、上野近き海辺の雜子、その声に驚きしとなむ」と解説し、「今も勅使などの旅行には、乗船下船の時、 かならず此の歌を吟じ給ふとなり」と記されているのは、時代とともに変遷する故実の歴史の一端がうかがわれて面白い。なお、その点は江戸時代の大名たちが、 自分の持ち船に乗船の際、鈴縄を張って、これを鳴らして合図したという風習にも、鈴船の伝統が偲ばれるのである。 難波人が船を曳く姿は「万葉集」にも、

 押照る 難波の崎に 引きのぼる 赤のそほ舟 そほ舟に 綱取り繋(か)け 引(ひこ)づらひ  ありなみすれど 言ひづらひ ありなみすれど ありなみ得ずぞ 言はれにしわが身 (13-3300)

などと見えているが「鈴船」の知識を持つ者からすれば、この歌の中の「赤のそほ舟」を、赤く塗った官船だとする説が有力である点は、大変重要であった。 この朱塗りの官船が「鈴船」のような鈴を備えていたか、どうかだが、「駅鈴」の歌われている「万葉集」から、「鈴船」の歌がすっかり姿を消してしまっているのは、 一体どういう理由からであったのだろう。 案外、歌は船の航行を視覚的にとらえて詠んだから、青い波の赤い船といった色彩的な印象が、その中心となったものとも考えられる。

 ともあれ、赤土(はに)が悪霊邪鬼を祓う威力を持つという考え方は、すでに「古事記」の崇神記<三輪山伝説>の条などにも見られるから、「板子一枚下は地獄」といわれてきた船の安全を願う者の思いが、まず最初に船を赤土で塗って彩ったということは、 一方に船材の保護という目的を発見したかも知れないが、その魔除けの精神を想う時、「赤のそほ舟」の根底には、「鈴船」の鈴の呪的な意義に通じる心が見いだされて興味深い。

 


初出 昭和53年(1978年)3月8日(水曜日)

本日の一鈴 五鈴鏡(愛知 尾張国一宮・真清田神社)

真清田神社

 真清田神社(ますみだじんじゃ、眞清田神社)は、愛知県一宮市真清田にある神社。尾張国一宮であるので市の名称が一宮市になった。 また、一宮市の市章も五鈴鏡をデザインしたものである。

 五鈴鏡(ごれいきょう)は真清田神社に伝世するとされる神宝であり鏡に5つの鈴を付した鈴鏡といわれるが、神宝として神職にも実見されておらず詳らかでない。

 


脚注 あけのそほふね 【赤のそほ船】

 船体をべんがらで赤く塗った船をいう。官船の目印とか、船体の腐食を防ぐとか、装飾のためとも、魔を防ぐためともいう。 万葉集には高市黒人の歌に「旅にしてもの恋しきに山下(やまもと)の赤のそほ船沖を漕ぐ見ゆ」(3-270)、 作者未詳の歌に、「おしてる 難波の崎に 引き登る 赤のそほ舟」(13-3300)とある。 ところで古代において船は死者の霊魂を運ぶものとも考えられていた。例えば天智天皇の挽歌に「かからむとかねて知りせば大御船泊てし泊まりに標結はましを」(2-151) 「やすみししわご大君の大御船待ちか恋ふらむ志賀の唐崎」(2-152)というように天皇の魂をのせた大御船に標を結ってとどめるとか、 その御船が来ることを待つというように表現される。考古学の成果によれば、船型の石棺等も見つかっており、こうした事実を考え合わせると、 赤く塗った船が単なる運送用の道具として用いられていたのではなく、祭儀等何らかの用途をもって作られた舟であることがわかる。

 (国学院デジタルミュージアム)より引用

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