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楯築遺跡土鈴 邪馬台国は吉備にあった。卑弥呼はここに眠る!?
岡山県倉敷市のストーンサークル「楯築遺跡(たてつきいせき)」の土鈴です。 楯築遺跡は倉敷市域北東の岡山市と境を接するあたりに広がる王墓山丘陵の北端、楯築神社の境内を中心とする弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)の墳丘墓(双方中円墳)で現在知られている弥生時代の墳丘墓としては最大級です。 邪馬台国の卑弥呼の墓としては奈良県桜井市の箸墓古墳が有力ですが、楯築遺跡からは特殊器台や特殊壺が出土しており、「卑弥呼」が行ったと魏志倭人伝に示される祭祀との関連からここを邪馬台国の卑弥呼の墓との説も唱えられます。 この土鈴を手にしながら歴史ミステリーに思いを馳せるのも楽しいのではないでしょうか。
墳丘墓(双方中円墳)の円丘の竪穴には木棺が納められ、棺床には30kgを越す朱(水銀朱)が敷かれていた。その様子と亀石(楯築神社のご神体で全表面に弧旋文様が刻まれた石)を合体させたのがこの土鈴のデザインです。この土鈴では弧旋模様をさらに強調しています。
2014年3月作品
桃太郎(吉備津彦命)の鬼退治土鈴 中山茶臼山古墳は桃太郎のお墓!?
崇神天皇の時代に、異国の鬼神が吉備国にやって来た。百済の王子で、名を温羅(うら)という。両眼はらんらんとして虎狼のようで、髪は赤く燃える火のようであった。腕力は優れ、性格は凶悪であったという。 温羅は、吉備国新山(総社市)に居城を構え、瀬戸内を走る船を襲い、近くの婦女を略奪し暴行極まりなかった。民衆は温羅を恐れ、その居城を「鬼ノ城」と呼び、朝廷にその暴状を訴えた。 天皇はこれを憂い、武勇たくましい吉備津彦命に温羅退治を命じた。吉備津神社の地に陣を構えた命は、まず西の山に石楯を築いて敵に備えた。倉敷市西山に残る楯築遺跡である。大きな石の楯で防備した要塞である。 激しい戦いが行われた。命は神力をもって、強力な弓を一時に二矢を射った。これには鬼も不意をつかれ、一矢はかみ合って海に落ちたが、一矢が見事鬼の左眼を貫いた。血が眼からほとばしり、この血が川のように流れた。今の血吸川である。 さすがの鬼も片目を失い、たちまちに雉となって山中に逃げ隠れた。命は機敏に鷹となって追いかけた。そこで鬼は、鯉となって血吸川に入った。今度は、命は鵜となってついにこの鯉を捕まえ喰った。 温羅の化身となった鯉がここに捕まり、ようやくに平穏が訪れたのである。倉敷市矢部に、鯉喰神社がある。 このお話が桃太郎のルーツなのです。桃太郎=正義=勝利、鬼=悪行=滅亡というパターンです。 一方、温羅は造船技術や製鉄技術を百済から伝え、吉備王国を繁栄に導き、民衆から親しまれた人物で、吉備津彦命は国内統一を図る大和朝廷から派遣された侵略者だという見方もあります。歴史は勝者に有利に伝わるものですので、実際は桃太郎=侵略者というのが正しいのかもしれません。
土鈴は鵜となった吉備津彦命が鯉となった温羅を捕らえた瞬間を表現しました。足元の前方後円墳は岡山市北区吉備津の「吉備の中山」山上にある中山茶臼山古墳です。吉備津彦命の陵墓参考地として宮内庁によって管理されており、大吉備津彦命墓(おおきびつひこのみことのはか)と呼ばれています。古墳時代前期の3世紀後半から4世紀頃に築造された全長約120メートルの古墳です。
2014年3月作品
牛窓の牛鬼土鈴 牛窓天神山古墳と仲哀天皇
記紀では、第十四代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)は九州の熊襲征伐のため西下された時、神のお告げをお信じにならなかったため、その怒りに触れて香椎宮(カシイノミヤ:現在の福岡市東区香椎)で急死されたとされています。また陵は大阪府藤井寺市にある惠我長野西陵に治定されています。 しかし、牛窓には昔から語り継がれてきた物語があります。それは西暦200年頃、仲哀天皇は、妻である神功皇后(じんぐうこうごう)と共に軍船にて三韓攻め(新羅・百済・高句麗の三国)に出られましたが、途中吉備の国であるこの浦に立ち寄られた時のことです。軍船が港に着くや突然空は雲に覆われ、激しい 落雷と共に頭が8つの怪物が現れました。その怪物は塵輪鬼(ちんりんき)と言い、黒雲に乗って仲哀天皇の一群に襲いかかったのです。しかし勇敢な仲哀天皇 は恐れることもなく側の御弓を手にとり、塵輪鬼に矢を射ると、鬼は真二つになり、海に落ちていきました。しかし、この時仲哀天皇も、その流れ矢に当た り、それが元で御崩御されてしまいました。その時海に落ちた鬼の首が鬼島(黄島)、胴が前島、尾が青島となりました。後に残った神功皇后は、大変お嘆きに なられましたが、夫君のご遺志を継ぐべくこの浦の住吉明神に参拝した後、男装をして出発されました。そして神功皇后が三韓征伐を終えて再びこの地に立ち寄 られた時、今度は塵輪鬼の魂魄(こんぱく)が牛鬼に姿を変えて海底から出現し、皇后の船を転覆させようとしました。とその時、住吉の大明神が老翁の姿と なって現れて、その牛鬼の角をつかんでなげ倒しました。これにより、神功皇后は無事に難を逃れました。それからはこの浦を牛転び(うしまろび)と呼ぶよう になったそうです。その後「うしまろび」がなまって牛窓(うしまど)となりました。
土鈴は片面に海底から出現した牛鬼を、もう一方の面には仲哀天皇と 神功皇后を表しました。また、その足元の古墳は仲哀天皇のお墓と伝えられる牛窓天神山古墳です。全長約85mで墳丘は後円部に比べ前方部の幅が狭く虫眼鏡のようになっていることから昔の鏡の形を例に挙げて柄鏡式の前方後円墳と呼ばれています。
2014年3月作品