第83代、土御門天皇の陵。
承久の乱(1221承久3年)は、父・後鳥羽上皇と弟・順徳天皇の共同謀議であり、土御門上皇は関与していなかったが、父や弟が流刑される中、一人都にとどまるのを潔しとせず、 幕府に申し入れて自ら土佐へ流刑と言う形をとった。その後幕府により、「少しでも都に近い方へ」という配慮で阿波へ転出するが、没するまでここですごす事になった。 今も阿波には火葬墓(阿波池谷村陵)が残っている。没後、ここ金原に御陵が築造されるが、どうしてこの地なのかは不明である。のちに管理のため金原寺が営まれたが江戸時代初めには名ばかりのものとなってしまったらしい。