第75代、崇徳天皇の陵。四国で唯一の天皇陵。JR「坂出」からバス「高屋」下車 東へ6q。
保元の乱で讃岐に流された崇徳上皇は長寛2年(1164年)46歳で崩御されました。遺骸は八十場の泉に浸されたあと、ここ白峯寺で荼毘にふされ、この地に葬られました。陵域は白峯寺に隣接して約1ヘクタールあり、陵形は方丘です。
![]() 陵印 昭和15年10月 |
![]() 陵印 昭和17年 3月 |
![]() 陵印 昭和18年 2月 |
![]() 戦前の写真 |
![]() 参道 平成21(2009)年 1月 |
![]() 制札 平成21(2009)年 1月 |
![]() 正面 平成21(2009)年 1月 |
![]() 正面 平成21(2009)年 1月 |
![]() 十三重の石塔 平成21(2009)年 1月 |
![]() 付近からの遠望、瀬戸大橋も見える 平成21(2009)年 1月 |
![]() 陵印 母 璋子 花園西陵/花園東陵 |
← 崇徳天皇の母、鳥羽天皇中宮、白河法皇の養女である藤原璋子(待賢門院)花園西陵。 崇徳天皇を白河法皇の実子とする説もある。 妹であり、鳥羽天皇・第二皇女:統子内親王(上西門院)花園東陵 京都市右京区花園扇町 |
崇徳院といえば
瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ
上方落語古典の名作です。夜叉のような姿になり、後に生きながら天狗になった、とすら言われた崇徳院とはイメージがかけはなれた和歌です。
また後の明治天皇は即位に際して使者を讃岐に送り、崇徳の霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建したそうです。