天武・持統合葬陵(てんむ・じとうがっそうりょう)
桧隈大内陵(ひのくまおおうちのみささぎ)
奈良県 高市郡明日香村大字野口
古代天皇陵の場合、被葬者がはっきりしているのは少ない中で、この御陵は天武天皇と持統天皇を合葬したものだと確実に言える。それは鎌倉時代に盗掘された時の記録が「阿不幾乃山稜記」、「明月記」などに残されているから。
ここには天武天皇の遺体を入れた棺桶と天皇として初めて火葬にされた持統天皇の遺骨を納めた骨壺が葬られていた。
第40代 天武天皇はお母さんが35、37代の斉明天皇。688年死去。天武天皇が没すると、その喪もまだ明け切らぬうち皇后は天武の子大津皇子(おおつのみこ)を謀反のかどで処刑した。皇后は我が子草壁皇子(くさかべのおうじ)を次代の天皇にと望んだが、草壁皇子は神経を病み死んだ。そこで皇后は自ら即位し、第41代 持統天皇となって草壁の遺児、珂瑠皇子(かるのみこ)に譲位した。珂瑠皇子が第42代 文武天皇となって後も、太上天皇と称し政治を行い、大宝2年(702)58才の生涯を閉じた。
703年、その持統天皇がこの陵に合葬された。
直径約50メートル、周囲219メートル、高さ約6メートル、五段築成の八角形墳で、現在はその頂上部だけが残されている。
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全景 |
路傍の地蔵、左が御陵。 |
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