土鈴との遭遇 忘れえぬ宇佐神宮神鈴

 今日、全国に広がる四万余社の八幡宮のうち、その総本社として知られる宇佐神宮の歴史は、きわめて古い。 神代の昔、天孫降臨に先だって、比売大神(ひめおおかみ=宇佐神宮二之御殿祭神)が天降った地として、「日本書紀」に記されている筑紫の宇佐島は、 この八幡宮の鎮座する宇佐の地といわれる。そして、この宇佐発祥の神と考えられている比売大神を、邪馬台国の女王卑弥呼とする説もあり、 邪馬台国の位置を宇佐を中心とした豊前平野の八幡信仰圏に比定する論は大分大学の富米隆氏によって早く展開され、 最近では松本清張氏との間に論争を繰り広げた高木彬光氏などにも支持されている。

 和気清麻呂が、宇佐神宮の託宣によって、皇位を狙う弓削の道鏡の野望をくじいた話は有名であるが、 この託宣といった形式を踏む行為の手順に「鬼道」をよくした卑弥呼の原始宗教(シャーマニズム)以来の伝統が伺われるのは興味深い。 古代日本の歴史の中心であったこの宇佐神宮の境内に佇んで「魏志倭人伝」の昔に想いを馳せたり、八幡信仰のあとを回顧したりする機会を筆者が得たのは昭和39年5月15日であった。 八幡宮の神域で古代の歴史と文化との香気に素直に酔うことができたのは、その前日、関西汽船の<くれない丸>で神戸港を出帆、約13時間の別府航路の船旅に、 遣唐使や防人を偲んだ心踊りの余波のせいであったのかもしれない。

 こうした快い興奮に浸っていた時、社務所で受けたのが宇佐八幡の鈴守りであった。 その澄んだ高雅な音色は、すっかり私の心を魅了してしまった。しかも、白色無彩、素焼きのままのこの土鈴は、中央鉢巻の上に「宇佐八幡」の陽刻文字が描かれており、 形の素朴さは、また、ひとしお可憐でもあった。かつては、五個一組であったようだが、私が求めた際には、三個一組のものしかなかった。 茶道の心得から生まれた「一期一会」という言葉は生涯にただ一度の巡りあいを意味するが、筆者と土鈴との遭遇は、まさにこの宇佐神宮の鈴守りがはじまりであった。 勿論、厳密に言えば、同じ日の午前中に訪れた高崎山自然動物園の土産物店で三猿の土鈴を購入していたのだから、それが筆者の入手した第1番目の土鈴ということになるが、 心底から土鈴に魅せられて、その素晴らしさを発見したのは宇佐八幡の土鈴が最初であったことは間違いない。

 され、この土鈴との遭遇が、同じ旅の期間中、期待と興味とに膨らんだ筆者の心を土鈴という未知の世界へ誘い続けてくれた結果は、 耶馬渓の羅漢寺で三猿鈴を、高千穂の天岩戸神社で手力男命<たぢからおのみこと>と天細女命<あめのうずめのみこと>との縁起鈴を、 阿蘇山では大小の魔除け鈴をといった具合に行く先々で身動きの取れないほど数多い土鈴を入手する羽目に陥ってしまった。 思えば、宇佐八幡の土鈴との遭遇が、それ以後の筆者の趣味と生活とをすっかり変えてしまおうとは夢にも思わなかったのである。


初出 昭和53年(1978年)3月16日(木曜日)

本日の一鈴 宇佐八幡土鈴(大分・宇佐神宮)

宇佐八幡土鈴(大分・宇佐神宮)

 宇佐八幡宮の魔除け鈴

 

 

本日の一鈴(番外) 箸墓 卑弥呼幻想土鈴(奈良)

箸墓

 毎回紹介している土鈴は一つですが、本文に邪馬台国・卑弥呼が出てきたのでもう一つご紹介します。

 卑弥呼の墓として最有力されているのが奈良県桜井市の箸墓(倭迹迹日百襲姫尊命陵)です。 その墳丘に座って邪馬台国の景色を眺めているような卑弥呼、 そんな幻想の世界が土鈴になりました。

 海老天たまこ作


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