英彦山ガラガラ いまも生きている民俗

 日本三大土鈴のうち、東の代表を山梨県の虫切り鈴とすれば、西の代表は福岡県の英彦山(ひこさん)ガラガラである。 浄瑠璃の「彦山権現誓助剣(ちかいのすけだち)」で、津々浦々の人々に親しまれてきた英彦山は、 筑紫の霊験所は、大山四王寺清水寺、武蔵清滝、豊前国の企救(きく)の御堂な、竈門(かまど)の本山彦の山と、 平安朝末期の歌謡集「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」の<霊験所歌>の中に歌われているように、古くから修験道の霊場として栄えた。 その開基は役(えん)の小角(おずぬ)といわれ、大和の大峯、出羽の羽黒と並ぶ山伏の修験道場として知られている。 「彦山」に「英」の一字を加えて「英彦山」としたのは、江戸時代の霊元天皇であったと伝えられている。

 さて、古来、開運の神として尊信されてきた、この英彦山神社から授与される土鈴が、地元の添田町で作られている英彦山ガラガラである。 英彦山ガラガラの名称は、もちろん、その音色から名付けられた俗称だが、この<ガラガラ>は世間一般に考えられるガラガラ声などの印象とは全く違って、その澄んだ軽やかな音色に寄せられた愛称であった。 胡粉仕上げの五個の素焼きの土鈴を無雑作に藁しべでくくり、鈴口の左右に朱色と藍色とを印ばかりに塗った素朴な土鈴は、その形といい、音色といい、日本全国に現存する土鈴の内、他に類を見ない逸品であろう。 英彦山ガラガラが手捻りの作であった初期には、その鈴口は、今日のようにはねて切り取ってしまうのではなく、切り目を入れただけで、反対側をつまめば、その圧力で自然に鈴口が開いたわけで、 この製法こそ土鈴作りの最高の在り方だというのが、創作土鈴に打ち込んでいる博多の井上博秀氏の持論である。さらに、英彦山ガラガラの純朴な彩色も、今日ではすっかり絵具に取って代わってしまっているが、 かつては、食紅とアオタケ(麻蚊帳の麻を青く染めた植物染料)とが用いられ、玩具として、子供が口でなめても何の害も及ぼさないものであった点、今日の数多い玩具をはじめ、 子供用の食器類に至るまで、公害問題に対する反省として、私たちは、昔の人の生活の知恵をもう一度見習うべきであろう。

 英彦山ガラガラの縁起としては、昔、英彦山権現をこの地に勧進した時、地中から古鈴が発掘されたので、これをかたどって神社から授与したのが始まりだと言われている。 以前は、この授与鈴を田の口に置いて、その年の豊作を祈願する習俗もあったというが、その後、コレラ、赤痢などの疫病が流行した時の呪物として用いられ、今日では広く魔除けとして、門口に吊るす民家が多い。 現在なお、鈴本来の呪的意義を脈々と伝えている英彦山ガラガラの民俗には、悠久な鈴の歴史が偲ばれて懐かしいが、同時に英彦山ガラガラそのものは、まさに英彦山信仰のみごとなシンボルでもあったことがわかる。 英彦山ガラガラには、五鈴の他に、七五三にちなんで、七鈴や三鈴のものもあったと聞くが、今日では五鈴のものが普通で、別に一個だけの大鈴のものも作られている。 戦後、社頭に大きな銅の鈴が奉納された際、当時の宮司の依頼で、博多の人形師であった井上銀月(銀之助)・博秀親子によって、昭和二十四、五年頃から約20年間ほど、 「金の鈴」の土鈴(特大・大・中・小の4種)が作られていたが、現在では廃絶してしまった。

 


初出 昭和53年(1978年)3月14日(火曜日)

本日の一鈴 英彦山ガラガラ(福岡県・英彦山神社)

英彦山ガラガラ

 英彦山のふもとで、古くから伝わる土鈴です。素朴な土の素焼きに、青(水)・朱(太陽)の彩をもち、稲藁を通してあります。 家の玄関や勝手口などに吊るされるほか置物として下駄箱の上などに魔除けの鈴として飾られます。


**英彦山土鈴由緒書**

 約1300年前、国中が天災に見舞われた際に文武天皇が英彦山に使いを出し祈願させたところ、たちどころに霊験があり、その礼のために鈴一口を奉納しました。 その鈴も、約800年前の戦乱の際の火災のために土中に埋め、後に所在不明となりました。そのため、肥前中原の城主に鈴の複製を作らせ、それを参拝者に分かち、その恩恵を受けさせたのが始まりとされています。


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