2003年10月11日広陵町の巣山古墳で出土した島状遺構の現地説明会が開かれました。奈良市の我家から巣山古墳に自転車で行こうとして行きがけの駄賃として寄ったのがこの島の山古墳。しかし、「行きがけの駄賃」と言っては失礼なほど立派な周濠が印象的な古墳でした。周濠の幅が広く、池に浮かんだ「島の山」というネーミングが似つかわしく感じます。周濠では昔は雷魚やなまずがよく釣れ、最近はBassとGillが増えてきているそうです。
明治26年3月、県が発行した「大和国古墳墓取調書」には「恐ラク皇后ノ御陵ナラン
」と記され、伝説では蘇我入鹿の墓だともいわれていました。現在は、西方の河合町
にある奈良盆地最大級の川合大塚山古墳などとともに、大和川水運を支配した古代豪
族に関わるものと推測されています。
墳形 | 全長 | 後円部径 | 後円部高 | 前方部幅 | 前方部高 | くびれ部幅 | くびれ部高 | 年代 |
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前方後円墳 | 195 | 105 | 15 | 100 | 10 | 57 | - | 古墳時代中期 5世紀前半 |
遠景 農道のように古墳に続く道は 聖徳太子が通った太子道です。 |
島の山古墳 遠景 住宅地の向こうに 見えてきます。 |
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島の山古墳は奈良盆地中央の平坦部、寺川と飛鳥川の間の沖積微高地上に営まれた、南東部に前方部を向ける三段築成の前方後円墳です。前方部は後円部に比べて低いが、その幅は後円部径近くまで広がっています。周囲に全長約270m、前方部前面の幅約180mの楯形の周濠を巡らせています。
墳丘上には円筒埴輪、葺き石が存在します。埋葬施設は不明ですが大型の碧玉製車輪石や鍬形石が出土しており、他に鏡片、垂下式耳飾、石製刀子、玉類の出土が伝えられています。
墳形、周濠、出土遺物などからみて5世紀前半の築造と考えられます。
この古墳の南方には、黒田大塚古墳を南限として、全長50m前後の前方後円墳数基を含むいくつかの古墳が存在します。この島の山古墳はこの式下古墳群の中心的存在として注目されるものです。
(奈良県教育委員会の現地案内板を参考にしました。)
古墳 |
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