神奈川・慈芳窯の池ヶ谷榮一さんのお土産土鈴

 

笑門来福

笑門来福・一笑一若

第117回例会

2006(平成18年)9月17日にて

 

神戸土鈴友の会の20周年に合わせて作られたので背面には「20」と浮き彫りされています。

 

 「笑う門には福来たる」すなわち、「いつも笑いの絶えないような明るい家庭には幸福が訪れる」という意味です。

 「一笑一若」と書かれていますが、一笑一若一怒一老(イッショウイチジャクイチドイチロウ)というのは斎藤茂太氏の造語で、座右の銘でもあり、 「大いに笑えば一歳ずつ若返り、怒ったり悲しんだりすれば一歳ずつ老いる」」とあります。

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マッチ

大和マッチ鈴

第126回例会

2008(平成20年)3月9日にて

 

栞126号の中に詳しい説明が記されていますので以下に引用します。

 

3月のお土産土鈴「燐寸土鈴」について
   鈴木博久

 昨年11月1~2日の志摩鈴ミュージアムへの秋の研修旅行で、 池ケ谷栄一氏から自作のマッチの土鈴各種の紹介があった。 その中で目立った土鈴があり、それは真っ赤なラベルに白文字で 大和鈴・黒文字で大正8年原登録 神戸太陽曹達株式会社と印刷されている。 裏返すと黒文字で『SAFETY MATCHS』 登録商標とあり。中央には大小の鈴が三個描かれている。 その下には黒地に白文字で『太陽曹達株式会社監製』と印刷されている。

 神戸と鈴の文字がある燐寸の土鈴、早速池ヶ谷氏に3月のお土産土鈴として25個を作ってもらうようにお願いした。

 3月9日の例会で「神戸 燐寸土鈴」が参加者に渡された。 しっかりした出来具合に皆が喜んでくれた。採算を度外視して、 大変な手間暇をかけて作ってくれたものと思われる。

 近代日本のグラフイズム「マッチラベル博物館」加藤 豊 コレクション(東宝出版2004.11.25)に掲載された写真をもとに 土鈴を作ったという。なかなかの労作である。

 その土産土鈴の『大和鈴』 という文字がどうも気になったので この燐寸の登録商標の内容について調べてみた。

燐寸の歴史

 ①1827年(文政10年)英J.ウォーカー摩擦マッチ発明

 ②1831年(天保2年)仏C.ソーリア黄りんマッチ発明

 ③1875年(明治8年)清水 誠が初めてマッチを製造

 ④1876年(明治9年)清水 誠は東京で「新燧社」を設立し、黄りんマッチを本格製造

 ⑤1878年(明治11年)安価な「新燧社」製のマッチを神戸の華僑を通じ清国上海へ初めて輸出、
  以後神戸が輸出マッチの大生産地となりインド、中国、シンガポールへ輸出

 ⑥1879年(明治12年)自然発火や毒性の煙を出す黄りんマッチの製造禁止したスウェーデンから
  帰国した清水 誠は無害な赤りんマッチ(セフティマッチ)の生産を始める

 ⑦1884年(明治17年)最初の商標法「商標条例」が施行

 ⑧1916年(大正5年)金子直吉が鈴木商店の事業の一つとして「帝国燐寸(株)」を設立し、
  マッチ業界に乗りだした

 ⑨1917年(大正6年)瀧川辨三の瀧川燐寸(株)は鈴木商店と提携して「東洋燐寸(株)」に改組

 ⑩1918年(大正7年)「東洋燐寸(株)」の瀧川儀作が兵庫県下の28工場を統合して
  「帝国燐寸(株)」設立。
  鈴木商店は砂糖と樟脳でもうけ、造船や鉄を取扱い 三井、三菱を追い越すまでになったが、
  米騒動で焼き打ちにあった。そのときには社員は3000人にもなっていた

 ⑪1919年|(大正8年)輸出高が4198万円と最高記録
  総合商社の鈴木商店は子会社として太陽曹達株式会社設立

 ⑫1927年(昭和2年)大蔵大臣の発言で銀行の取り付け騒ぎが発生、日本は未曽有の金融恐慌と
  なり、借金があった鈴木商店は倒産した。当時60以上の会社が傘下にあった。

 ⑬1949年(昭和24年)太陽曹達(株)は太陽鉱工(株)となり、モリブデンやセラミック原料など
  軽金属を製造

 鈴木商店の倒産後、金子直吉が起こした工場や会社はいまでも形を変えて存続している。
  その主な会社は神戸製鋼、帝人、日商岩井、豊年製油、日本製粉、サッポロビール、日本化薬、
  商船三井、日本水産、三井東圧、太陽鉱工など。

 

 「大和鈴」の意味については現在、太陽鉱工に問い合わせ中であるが、この燐寸は大正8年に設立した 太陽曹達(株)が商標登録した「大和鈴」のブランドをPRするた帝国燐寸(株)に作らせた燐寸だと思われる。 またSAFTY MATCHESの意味は無害な赤りんマッチであることを強調表示している。

 一つのお土産土鈴。「燐寸土鈴」が、当時の時代背景など色々興味深い事を私に教えてくれた。
  感謝、感謝。

 

 池ヶ谷榮一さんは2022年1月、92歳で永眠されました。栞184号に追悼記事と作品の一部が載せられていますのでご参照ください。

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